202話:皇帝
帝都ヴァルディス。
人口三百万。
世界最大級の都市。
そして。
世界最大級の“歪み”。
朝。
南区。
薄暗い路地。
汚水が流れる。
腐臭。
湿気。
熱気。
人。
人。
人。
過密。
子供が咳をする。
老人が壁際でうずくまる。
痩せた母親が、赤子を抱えながら水を汲んでいた。
その水は濁っている。
だが。
他に飲める水がない。
ピーターは立ち止まった。
視線が動かない。
グランゼルも酷かった。
循環国家へ来る前の村も酷かった。
だが。
ここは規模が違う。
「……これが」
「帝都……」
隣の帝国教師が苦く笑う。
「ええ」
「これでもマシな地区です」
ピーターが絶句する。
汚水路。
崩れた石畳。
腐った食材。
ハエ。
病人。
孤児。
全部が混ざっていた。
帝国は強大だった。
軍も。
経済も。
人口も。
だが。
巨大すぎる。
だから。
腐敗も巨大だった。
そこへ。
重い足音が響く。
近衛騎士。
道が開く。
帝国紋。
黄金外套。
そして。
若皇帝アレクシス・ヴァルディス。
若い。
まだ三十にも届かない。
だが。
目だけは老いていた。
現実を見ている目。
逃げていない目。
アレクシスは周囲を見る。
臭気から逃げない。
汚水から目を逸らさない。
泣く子供を見た。
倒れた老人を見た。
それから。
静かに言った。
「……酷いな」
誰も否定できない。
帝国教師も。
役人も。
近衛騎士も。
皆知っていた。
知っていて。
止められなかった。
アレクシスはピーターを見る。
「お前たちは」
「帝国を変えられるか」
試す声ではない。
本気だった。
ピーターは即答する。
「変えられます」
帝国側がざわつく。
若すぎる教師。
だが。
迷いがない。
アレクシスは問う。
「どうやってだ」
そこで。
後ろから声。
「まず水です」
グロマールだった。
いつの間にか立っていた。
アレクシスが小さく笑う。
「やはり来るか」
グロマールは汚水路を見る。
「病は結果です」
「原因は環境」
「水」
「衛生」
「過密」
「食」
「循環不全」
帝国官僚たちが黙る。
グロマールは続けた。
「まず下水」
「飲料水」
「これを分離します」
帝国役人が顔を青くする。
「人口三百万ですよ……!?」
「可能なのですか!?」
グロマールは即答する。
「可能です」
「全部を一度にやらない」
「区域分割」
「優先順位」
「病発生率」
「人口密度」
「感染源」
「順番に潰す」
合理的だった。
感情論がない。
まず。
帝都全域調査。
索敵教師団出動。
循環国家教師。
帝国教師。
共同作業。
索敵魔法が走る。
地下水脈。
汚染源。
排水勾配。
井戸位置。
病人分布。
全部見える。
帝国教師たちが震える。
「索敵を……」
「こんな使い方が……」
ピーターが静かに答える。
「魔法は戦争だけじゃありません」
「生活にも使えます」
三日後。
工事開始。
土魔法。
水魔法。
風魔法。
同時運用。
汚水路を分離。
飲料水路を地下化。
簡易浄化槽建設。
沈殿池。
濾過設備。
全部を低コストで回す。
工兵教師団。
マリー率いる土木教師団。
地盤鑑定。
崩落防止。
排水勾配。
全部管理。
帝国側工兵たちは驚愕した。
「こんな速度で……」
「街を直していくのか……」
そして。
次。
公衆浴場。
百軒建設。
帝都各区。
市場近く。
宿場近く。
労働区近く。
治療院近く。
全部計算済み。
ミネルバが講義する。
「清潔は命を守ります」
「身体を洗う」
「服を洗う」
「寝具を洗う」
「それだけでも病は減ります」
帝国治療師たちが呆然とする。
「そんなことで……?」
「死者が減るのか……?」
ピーターが頷く。
「減ります」
「実際に減りました」
グランゼル。
かつて死臭の街。
今は違う。
死亡率。
疫病率。
乳児死亡率。
全部改善した。
数字が証明していた。
そして。
石鹸。
帝国中央講堂。
教師。
商人。
職人。
役人。
数百人。
前に立つのはジミー。
「えー、石鹸講座始めまーす」
軽い。
だが。
天才だった。
「油」
「灰汁」
「香草」
「混ぜる」
「寝かせる」
「終わり」
帝国側が固まる。
「簡単すぎるだろ……」
ジミーが肩をすくめる。
「簡単じゃなきゃ普及しねぇ」
「高級品にしたら意味ない」
「庶民が使えて初めて価値になる」
物流鑑定。
原価鑑定。
相場鑑定。
商売鑑定。
全部が噛み合っていた。
帝国教師たちが必死に記録する。
教導スキル保持者たち。
理解速度が異常だった。
「量産可能」
「地方展開可能」
「疾病率低下」
「労働効率改善」
行政教師が即座に計算する。
帝国は変わり始めていた。
その夜。
皇城。
アレクシス・ヴァルディスは窓から帝都を見る。
まだ汚い。
まだ病んでいる。
まだ苦しい。
だが。
変わっている。
確実に。
水路工事。
浴場建設。
道路整備。
人の流れ。
以前より速い。
以前より整っている。
後ろで声。
レオハルトだった。
帝国行政責任者。
理解者。
改革派。
「陛下」
「変わり始めています」
アレクシスが静かに言う。
「……敵ではなかったな」
レオハルトが頷く。
「はい」
「循環国家は侵略国家ではありません」
「教育国家です」
「環境国家です」
アレクシスは苦笑する。
「恐れていた」
「民に知識を与える国を」
「だが違った」
「知識は国を壊さない」
「腐敗を壊す」
沈黙。
その後。
アレクシスは小さく呟く。
「帝国を変えられるか」
その問いに。
今度はレオハルトが答えた。
「変えられます」
「既に始まっています」
その頃。
帝都南区。
新設浴場。
湯気。
笑い声。
子供たちがはしゃぐ。
「すげぇ!!」
「あったけぇ!!」
「身体が軽い!!」
母親たちが泣いていた。
老人が涙を流していた。
ミネルバが静かに笑う。
「少しずつですね」
ピーターも頷く。
「はい」
「でも確実です」
グロマールは遠くから帝都を見る。
巨大都市。
巨大国家。
巨大な腐敗。
だが。
人は変わる。
環境が変われば。
教育があれば。
循環があれば。
そして。
帝国もまた。
ゆっくりと。
循環へ近づき始めていた。




