181話:泣く男
解放都市ガデア。
朝。
都市は静かだった。
以前のような怒号はない。
鞭の音もない。
奴隷商人の笑い声もない。
代わりに聞こえるのは。
鍋の音。
子供の声。
水を運ぶ音。
そして。
文字を読む声だった。
都市北区。
旧奴隷兵収容区域。
そこに、一人の男が座っていた。
大柄。
傷だらけ。
右目の横に古い裂傷。
腕には焼印。
首には、かつて首輪を付けられていた痕が残っている。
男の名はダリオ。
三十五歳。
元奴隷兵。
奴隷国家が作った“消耗品”だった。
朝。
配給列に並ぶ。
以前ならありえないことだった。
奴隷兵に配給などない。
奪うか。
死ぬか。
それだけ。
だが今。
配給係の兵士がパンを渡してくる。
「次」
ダリオが戸惑う。
「……俺にも?」
兵士が不思議そうに見る。
「並んでるだろ」
「全員分ある」
それだけ言う。
自然だった。
特別扱いではない。
施しでもない。
“普通”だった。
ダリオはパンを受け取る。
温かい。
焼きたてだった。
その瞬間。
胸が苦しくなる。
思い出してしまう。
昔。
奴隷兵部隊で。
飢えた仲間がパンを盗んだ。
将校は笑いながら、そいつの指を切った。
他の兵に食わせた。
「盗むとこうなる」
そう言って。
みんな笑った。
笑わないと。
次に切られるのは自分だから。
ダリオは俯く。
パンが震える。
隣に座った小さな子供が笑う。
「おっちゃん、食べないの?」
ダリオが固まる。
“おっちゃん”。
そんな風に呼ばれたことがない。
今までは。
番号。
犬。
ゴミ。
盾。
肉壁。
そういう呼ばれ方だった。
子供は気にしていない。
普通にパンを食べている。
ダリオを見る。
「おいしいよ」
その笑顔を見た瞬間。
ダリオは目を逸らした。
眩しかった。
午前。
旧兵舎。
そこでは治療が行われていた。
ミネルバが治療班を率いている。
負傷兵。
病人。
栄養失調。
みんな並んでいる。
元奴隷兵たちが怯えていた。
理由は単純。
治療を受けたことがない。
奴隷兵は壊れたら捨てられる。
治療薬は貴族用。
だから。
“治してもらう”という感覚がない。
ミネルバが優しく声を掛ける。
「次の方どうぞ」
誰も動かない。
ミネルバは急かさない。
ただ待つ。
やがて。
ダリオが前へ出た。
足を引きずっている。
昔の槍傷。
化膿していた。
ミネルバは眉をひそめる。
「酷い……」
ダリオが慌てる。
「す、すぐ働ける!」
「問題ない!」
「まだ戦える!」
ミネルバが静かに見る。
その言葉。
“働けないと捨てられる”。
身体に染み付いている。
ミネルバは優しく言った。
「今は戦わなくて大丈夫です」
ダリオが止まる。
理解できない。
ミネルバが傷に触れる。
光属性魔法。
淡い光。
浄化。
治癒。
傷が少しずつ閉じていく。
ダリオが息を呑む。
痛みが消える。
何年も。
ずっと痛かった。
雨の日は眠れなかった。
でも誰も治さなかった。
当然だった。
奴隷兵だから。
ミネルバが言う。
「無理しすぎです」
「ちゃんと休んでください」
ダリオの喉が震える。
“休んでください”
その言葉。
人生で初めて聞いた。
午後。
広場。
教育班が集まっていた。
ピーターが子供たちに文字を教えている。
大人も見ている。
その中にダリオもいた。
遠くから。
黙って。
ピーターが石板に文字を書く。
『ひと』
「これは“人”って読む」
子供たちが真似する。
『ひと』
『ひと』
声が響く。
ピーターが続ける。
「人は考える」
「学べる」
「助け合える」
「だから人なんだ」
ダリオの胸が痛む。
そんなこと。
教わったことがない。
奴隷兵学校では違った。
命令。
服従。
殺せ。
死ね。
奪え。
耐えろ。
それだけ。
人間とは教わらなかった。
兵器として育てられた。
だから。
今の光景が理解できない。
ピーターが周囲を見る。
そして。
ダリオに気づく。
「あなたもどうですか?」
ダリオが反射的に下がる。
「俺はいい」
「字なんか……」
ピーターは笑う。
「いいですよ」
「ここは誰でも学べます」
ダリオが固まる。
“誰でも”。
奴隷兵も?
ゴミも?
捨て駒も?
本当に?
周囲の子供たちが言う。
「おっちゃんもやろうよ!」
「楽しいよ!」
ダリオは動けない。
怖い。
もし間違えたら。
殴られる。
笑われる。
罰を受ける。
身体が覚えている。
ピーターは何も言わない。
ただ石板を差し出す。
ダリオの手が震える。
石筆を持つ。
重い。
剣より重い。
槍より怖い。
でも。
ゆっくり書く。
線。
また線。
歪な文字。
途中で止まる。
汗が落ちる。
それでも書く。
そして。
名前ができた。
『ダリオ』
その瞬間。
ダリオの呼吸が止まる。
自分の名前。
書いた。
自分で。
初めて。
誰にも奪われず。
命令されず。
自分の意思で。
ダリオの手から石筆が落ちた。
崩れ落ちる。
膝をつく。
肩が震える。
そして。
泣いた。
声を上げて。
子供みたいに。
止まらない。
「……俺は……」
「俺は……」
言葉にならない。
ピーターが静かに待つ。
周囲も静かだった。
誰も笑わない。
誰も急かさない。
ダリオが涙を流しながら叫ぶ。
「俺は初めて……!」
「人間扱いされた……!!」
広場が静まり返る。
ダリオは泣き続ける。
何十年分もの涙。
怒り。
苦しみ。
恐怖。
全部溢れる。
「番号じゃなかった……!」
「捨て駒じゃなかった……!」
「犬じゃなかった……!」
「俺は……!」
言葉が崩れる。
ピーターが静かに肩へ手を置いた。
「はい」
「あなたは人です」
その瞬間。
ダリオは完全に崩れ落ちた。
周囲の元奴隷兵たちも泣いていた。
老人。
女。
子供。
みんな。
泣いている。
理由は同じ。
初めて。
“人間として扱われた”。
ただそれだけ。
それだけなのに。
人生全部を壊すくらい。
重かった。
広場外。
マイクがその光景を見ていた。
腕を組む。
隣にセレス。
マイクが低く言う。
「……強ぇな」
セレスが聞き返す。
「誰が?」
マイクは広場を見る。
「教育だよ」
「剣よりヤベぇ」
セレスは少し笑った。
「だから旧国家は恐れたのよ」
「人が、“自分で考える”ようになるから」
風が吹く。
夕陽が差し込む。
広場には。
文字を書く人々が増えていた。
名前を書く。
言葉を覚える。
考える。
それは。
失われた人間性を取り戻す行為だった。
そして。
循環国家が作っているのは。
軍でも。
領土でもない。
“人間”だった。




