182話:母
解放都市ガデア。
戦争は終わっていない。
旧国家はまだ各地に残っている。
奴隷制度も完全には消えていない。
それでも。
都市の空気は変わっていた。
朝。
広場に並ぶ湯気。
炊き出し。
パン。
野菜スープ。
そして。
子供の声。
笑い声だった。
以前のガデアでは考えられない光景だった。
かつてこの都市では。
子供は“商品”だった。
奴隷。
労働力。
兵士予備。
鉱山送り。
売却対象。
名前より値段が重要だった。
だが今。
都市中央区。
旧奴隷商館を改修した巨大施設。
そこには新しい看板が掲げられている。
『ガデア中央孤児院』
文字を書いたのはピーター。
建築設計はセレス。
改修工事は土魔法班。
資材調達はジミー。
そして。
運営責任者。
ミネルバだった。
朝日が差し込む。
広い食堂。
長机。
椅子。
土属性魔法で整備された床。
水属性魔法で洗浄された清潔な空間。
子供たちが並んでいた。
人族。
獣人。
亜人。
エルフ。
混血。
元奴隷。
難民。
全部いる。
以前なら絶対に同じ空間へ入れられなかった子供たち。
種族差別。
身分差別。
奴隷階級。
全部存在した。
だから最初は酷かった。
怯える。
睨む。
奪う。
殴る。
食事を隠す。
盗む。
当然だった。
“環境”がそう育てた。
優しくされる経験がない。
だから。
信じられない。
今朝も。
小さな獣人の少女がパンを服へ隠していた。
ミネルバは見つける。
でも怒らない。
少女は震えていた。
「ご、ごめんなさい……」
「もう盗まないから……」
ミネルバはしゃがむ。
目線を合わせる。
「違いますよ」
「ここは、次の食事もあります」
少女が理解できない顔をする。
ミネルバは優しくパン籠を見せた。
まだ大量にある。
スープもある。
水もある。
少女の目が揺れる。
“次もある”。
その感覚が存在しない。
奴隷市場では。
奪われる前に隠す。
食える時に食う。
それが常識だった。
ミネルバは少女の頭を撫でる。
「大丈夫です」
「誰も取りません」
少女が泣きそうな顔になる。
でも。
まだ信じ切れない。
その様子を見ていた少年が言う。
「ほんとだよ」
「昨日も今日もご飯あった」
獣耳の少女が振り向く。
話しかけたのは人族の少年だった。
以前ならありえない。
奴隷国家では。
種族で階級が分かれていた。
獣人は下。
混血はもっと下。
だから。
同じ机で食べること自体が革命だった。
午前。
院内診療室。
ミネルバが治療を続けている。
病気。
栄養失調。
傷。
感染症。
全部ある。
戦争より酷い。
“放置”の傷だ。
グロマールが以前言った。
「人は急には壊れない」
「長期間、放置されて壊れる」
今。
ミネルバはその意味を理解していた。
ベッドに寝ているのは小さなエルフの少女。
片目が見えない。
奴隷鉱山で働かされていた。
崩落事故。
放置。
そのまま失明。
少女は無表情だった。
感情が死んでいる。
ミネルバが治療魔法を流す。
光属性。
浄化。
癒。
細胞再生。
完全回復は難しい。
でも少しずつ治る。
少女が呟く。
「なんで……」
「治すの……」
ミネルバの手が止まる。
少女は続ける。
「私は売れない奴隷だった」
「片目潰れたから」
「価値ないって言われた」
静かな声。
諦めきった声。
ミネルバはゆっくり答える。
「価値はあります」
少女が笑う。
乾いた笑い。
「嘘」
「みんなそう言う」
「でも最後には捨てる」
ミネルバは否定しない。
軽い言葉は意味がない。
だから。
ただ治療を続ける。
温かい光。
静かな時間。
やがて。
ミネルバが言う。
「ここでは捨てません」
「私は見捨てません」
少女が初めてミネルバを見る。
真っ直ぐ。
逃げない目。
それを見た瞬間。
少女の瞳が揺れた。
昼。
中庭。
子供たちが遊んでいる。
マイクが来ていた。
防衛軍視察帰り。
巨大な身体。
子供たちが群がる。
「マイクー!」
「遊べー!」
「肩車ー!」
マイクが笑う。
「おう!」
「今日は特別だ!」
一瞬で子供に囲まれる。
以前のマイクなら考えられなかった。
喧嘩。
暴力。
力任せ。
そんな男だった。
でも今。
子供たちを守るために力を使っている。
それを一番嬉しそうに見ているのが。
ミネルバだった。
セレスが隣へ来る。
「完全に人気者ね」
ミネルバが少し笑う。
「子供好きなんですよ」
マイクは獣人の子供を肩へ乗せている。
別の子供には土魔法で小さな椅子を作っていた。
不器用。
でも優しい。
セレスが孤児院を見る。
静かに言う。
「凄いわね」
「種族混合でここまで揉めないなんて」
ミネルバは少し考える。
そして答える。
「環境だと思います」
「奪い合わなくていいから」
「怖がらなくていいから」
「だから……少しずつ変わるんです」
セレスが目を細める。
その言葉。
まさにグロマールの思想だった。
午後。
新館建設区域。
土魔法建築班が動いていた。
巨大。
速い。
土属性魔法。
石生成。
壁形成。
柱構築。
床整備。
かつて数年掛かった建築が。
数日で進む。
グロマールが現場を見ている。
魔力循環。
魔力操作。
教育された魔導士たち。
連携が異常だった。
無駄がない。
以前なら。
貴族専属の高位魔導士しか不可能だった。
今。
平民出身の若者たちが普通にやっている。
理由は単純。
教育。
それだけ。
ジミーが書類を持って走ってくる。
「グロマール!」
「孤児院、もう足りねぇ!」
「今日だけで難民百七十人増えた!」
グロマールは驚かない。
想定内だった。
風魔法放送。
教育解放。
奴隷制度崩壊。
人が流れるのは当然。
ジミーが頭を掻く。
「食料は余裕だ」
「農業革命のおかげで食料充足率300%超えてる」
「問題は教育と寝床だ」
グロマールが孤児院を見る。
窓から子供たちの笑い声。
以前なら。
この世界の子供たちは。
働くために生まれた。
死ぬために生まれた。
でも今。
学ぶために生き始めている。
グロマールが静かに言う。
「増設する」
「教育班も追加だ」
「教師育成を急ぐ」
ジミーが笑う。
「了解」
夕方。
孤児院食堂。
夕食。
温かいシチュー。
パン。
野菜。
肉。
子供たちが笑っている。
その中に。
一人だけ食べない少年がいた。
狼獣人。
痩せている。
ずっと周囲を睨んでいる。
近づく者を威嚇する。
以前なら。
“危険”として処分された。
でも。
ミネルバは隣へ座る。
少年は低く唸る。
ミネルバは普通にスープを置く。
「温かいうちにどうぞ」
少年は答えない。
ミネルバも急がない。
沈黙。
やがて。
少年が小さく聞く。
「……なんで」
「俺を殴らない」
ミネルバの胸が痛む。
それがこの子の“普通”だった。
噛みつけば殴られる。
逆らえば蹴られる。
だから先に威嚇する。
自分を守るために。
ミネルバは静かに答える。
「殴る必要がありません」
少年が震える。
理解できない。
ミネルバは続ける。
「あなたは悪い子じゃありません」
「怖かっただけです」
その瞬間。
少年の目から涙が落ちた。
小さい。
静かな涙。
でも。
止まらない。
夜。
孤児院屋上。
ミネルバが洗濯物を干していた。
風が吹く。
都市の灯りが広がる。
学校。
病院。
食堂。
配給所。
全部動いている。
グロマールが来る。
ミネルバが振り向く。
少し疲れていた。
でも笑っている。
グロマールが聞く。
「限界か?」
ミネルバは首を振る。
「大丈夫です」
少し間を置く。
そして。
静かに言う。
「……でも、怖いです」
グロマールは黙って聞く。
ミネルバが都市を見る。
「この子たち」
「最初、全然笑わなかったんです」
「泣くこともできなかった」
声が震える。
「でも今は」
「笑うんです」
「甘えるんです」
「抱きついてくるんです」
涙が滲む。
「だから……絶対に壊したくない」
グロマールは静かに言った。
「壊させない」
短い。
でも。
確信だった。
ミネルバは少し笑う。
その笑顔は。
もう“弱い少女”ではなかった。
母だった。
種族も。
身分も。
過去も関係なく。
全部受け入れる。
傷付いた子供たちを。
抱きしめ続ける。
それが。
今のミネルバだった。




