174話:怒り
南方奴隷国家群、鉱山都市ルグバス。
空気が変わっていた。
昨日までと同じ石畳。
同じ灰色の空。
同じ煤けた建物。
同じ痩せた人間たち。
なのに。
何かだけが決定的に違っていた。
誰も、下を向いていなかった。
広場の中央。
昨日処刑されたロド教師の血痕が、まだ石畳に残っている。
兵士たちはそれを見せつけるように掃除をしなかった。
恐怖を植え付けるため。
見せしめ。
いつものやり方。
今までは、それで良かった。
民衆は怯えた。
沈黙した。
諦めた。
だが。
今日は違う。
広場を歩く奴隷たちの目が違った。
誰も喋らない。
なのに。
静かに怒っていた。
市場。
干からびた野菜。
腐りかけた肉。
値段は高い。
配給は減った。
それでも税は上がる。
兵士は威張る。
貴族は太る。
今までは耐えた。
世界とはそういうものだと思っていた。
だが。
もう知ってしまった。
外には違う世界がある。
食える国。
学べる国。
子供が売られない場所。
文字を教えてくれる教師。
殴られない夜。
それを知った。
だから戻れない。
市場の片隅。
奴隷の男が小さく呟く。
「……なんで俺たちだけなんだ」
隣の老婆が顔を上げる。
男は続けた。
「なんで、あっちは飯があって」
「なんで、あっちは学べて」
「なんで俺たちは……」
最後まで言えなかった。
喉が震えた。
老婆は静かに言った。
「知っちまったからさ」
「え?」
「前は比べる相手がいなかった」
「だから耐えられた」
老婆は空を見る。
遠い。
遠い北。
風の向こう。
「でも今は違う」
「知っちまった」
「人間らしく生きてる奴らを」
市場の空気が重くなる。
兵士が歩いてきた。
奴隷たちは一斉に黙る。
いつもなら。
だが。
今日の沈黙は違った。
怯えではない。
怒りだった。
兵士が怒鳴る。
「何を見ている!」
誰も返事しない。
兵士が奴隷の少年を蹴った。
「仕事へ戻れ!」
少年は倒れる。
だが立ち上がった瞬間。
兵士を睨んだ。
兵士が止まる。
ほんの一瞬。
その目に気圧された。
今まで見たことがない目だった。
奴隷の目ではない。
兵士は苛立ち、さらに殴ろうとする。
その時。
市場の奥から声が上がった。
「教師を返せ!」
全員が振り向く。
痩せた女だった。
洗濯女。
奴隷。
いつも俯いていた女。
その女が叫んだ。
「文字を教えただけじゃないか!」
兵士が怒鳴る。
「黙れ!」
女は止まらない。
「何が悪い!」
「子供に文字を教えて何が悪い!」
市場が揺れた。
空気が変わる。
兵士たちが武器を構える。
だが。
今度は別の場所から声が上がる。
「そうだ!」
「何で殺した!」
「何で学んじゃいけねぇんだ!」
一人。
また一人。
民衆が声を上げ始める。
それは暴動というより。
積み重なった感情の噴出だった。
今まで耐えてきた。
殴られても。
奪われても。
飢えても。
子供を売られても。
諦めていた。
世界は変わらないと思っていた。
だが。
変わる世界を知ってしまった。
だから耐えられなくなった。
兵士が剣を抜く。
「黙れ!」
「反逆罪だ!」
その瞬間。
石が飛んだ。
兵士の額に当たる。
全員が凍る。
石を投げたのは、小さな少年だった。
昨日、地面に“ひ”を書いていた子供。
兵士が怒鳴る。
「ガキィ!」
走り出そうとする。
だが。
その前に。
市場中から物が飛び始めた。
石。
木片。
壊れた皿。
腐った野菜。
怒号。
叫び。
泣き声。
兵士たちが混乱する。
「抑えろ!」
「押さえつけろ!」
「逃がすな!」
だが遅い。
もう止まらない。
民衆は初めて知った。
自分たちが“数”であることを。
兵士は少ない。
自分たちは多い。
それを知ってしまった。
都市北区。
炭鉱地帯。
そこでも騒ぎが起きていた。
労働奴隷たちが作業を止める。
監督官が鞭を振るう。
だが誰も動かない。
監督官が叫ぶ。
「働け!」
一人の老人が前へ出た。
背中は曲がっている。
腕は痩せ細っている。
だが目だけは死んでいなかった。
老人は静かに言う。
「嫌だ」
監督官が凍る。
そんな言葉を聞いたことがない。
奴隷が拒否するなど。
ありえなかった。
老人は続ける。
「外には飯がある」
「外には学校がある」
「なら、なんでここで死ななきゃならん」
その言葉が広がる。
鉱夫たちの空気が変わる。
監督官が後退る。
恐怖した。
武器ではない。
空気に。
“従わなくてもいい”
という感情に。
南方中央神殿。
高官たちは報告を受けていた。
「各都市で暴動発生!」
「労働停止が連鎖しています!」
「奴隷の逃亡増加!」
「兵士の脱走も確認!」
老人高官が机を叩く。
「なぜだ!」
答えは誰もが知っていた。
希望。
それが原因だった。
絶望だけなら支配できる。
飢えだけなら従わせられる。
恐怖だけなら縛れる。
だが。
希望を知った人間は戻れない。
なぜなら。
比較してしまうからだ。
“もっとマシな世界”を。
そして一度比較した瞬間。
今までの人生全部が“おかしい”と気づいてしまう。
高官が呟く。
「……たった一つの放送で」
誰も答えない。
風が吹く。
神殿の窓を揺らす。
その風に。
再び声が乗った。
『子供を飢えさせるな』
全員が顔を上げる。
『学べ』
『逃げろ』
『生きろ』
高官の顔が歪む。
兵士たちが震える。
そして。
都市の民衆は。
静かに立ち上がり始めていた。
もう。
戻れなかった。




