173話:焼かれる学校
夜だった。
南方奴隷国家群――その辺境。
乾いた荒野の外れに、小さな石造りの倉庫がある。
本来は穀物庫。
もう長く使われていない廃棄建物。
窓は板で塞がれ、入口には布が垂れていた。
外から見れば、ただの廃墟。
だが中には灯りがあった。
小さな魔石灯。
その淡い光の下で、子供たちが床に座っている。
痩せた子。
奴隷紋を刻まれた子。
腕に焼印の残る子。
皆、静かに前を見ていた。
前に立つのは、一人の男。
名をラザルという。
四十代。
元奴隷。
かつて北方へ逃げた商人から文字を教わった男だった。
震える手で木板を持つ。
そこには大きな文字。
『あ』
子供たちが真似して書く。
ぎこちない。
歪んでいる。
それでも。
子供たちは笑っていた。
「できた……」
小さな少女が呟く。
ラザルは笑った。
「上手だ」
「本当に……上手だ」
少女は泣きそうな顔になる。
褒められ慣れていなかった。
この国では奴隷は褒められない。
殴られる。
使われる。
捨てられる。
それだけだ。
だから。
褒め言葉は、暴力より痛い。
「先生」
少年が手を上げる。
「文字を覚えたら、何ができるの?」
ラザルは少し考えた。
そして静かに答えた。
「世界を知れる」
子供たちが目を丸くする。
「世界?」
「そうだ」
ラザルは床に座った。
子供たちと同じ高さになる。
「今まで、お前たちは“ここ”しか知らなかった」
「畑」
「鉱山」
「牢」
「奴隷市場」
「それだけだ」
静かな声。
優しい声。
「でも文字を覚えると、本が読める」
「本を読めば、他の国を知れる」
「他の生き方を知れる」
「人は比較できるようになる」
その時だった。
外。
音がした。
馬。
鎧。
金属音。
ラザルの顔が固まる。
子供たちも察した。
空気が変わった。
「……静かに」
ラザルが小さく言う。
灯りを消そうとした瞬間。
扉が吹き飛んだ。
爆音。
木片が飛び散る。
子供たちが悲鳴を上げる。
そこへ。
武装兵士たちが雪崩れ込んできた。
赤黒い鎧。
奴隷国家ルベイン直属兵。
先頭には、一人の男。
隊長格。
筋骨隆々。
目だけが異様に冷たい。
「いたぞ」
低い声。
兵士たちが一斉に子供を押さえつける。
泣き声。
悲鳴。
「やめて!」
ラザルが前へ出た。
「その子たちは関係ない!」
隊長がラザルを見る。
「教師か」
「……そうだ」
「文字を教えたな」
「教えた」
「魔法理論もか?」
ラザルは黙った。
それだけで答えだった。
隊長はため息を吐く。
本当に面倒そうな顔だった。
怒りではない。
憎しみでもない。
処理。
ただそれだけ。
「なぜ教えた」
ラザルは震えながら言った。
「……人だからだ」
隊長が眉を寄せる。
理解できない顔だった。
「奴隷だぞ」
「違う!」
ラザルが叫ぶ。
「この子たちは人間だ!」
沈黙。
兵士たちの顔が険しくなる。
隊長は静かにラザルを見た。
「お前みたいなのが国を壊す」
ラザルは笑った。
「違う」
「壊れる国は、最初から壊れてる」
その瞬間。
拳が飛んだ。
鈍い音。
ラザルが吹き飛ぶ。
子供たちが泣き叫ぶ。
「先生!」
兵士が少女を蹴る。
「黙れ!」
隊長は床に落ちた木板を拾った。
そこには子供が書いた文字。
『あ』
歪で。
下手で。
それでも一生懸命書いた文字。
隊長はそれを見つめる。
「……くだらん」
木板を踏み砕いた。
少女が泣いた。
ラザルが歯を食いしばる。
隊長が周囲を見る。
部下へ命令した。
「本を集めろ」
兵士たちが奥から布袋を引きずり出す。
中には本。
紙束。
手書き教材。
魔法理論。
地図。
算術。
全部。
兵士たちは中央へ積み上げた。
「燃やせ」
火が放たれる。
本が燃えた。
紙が黒くなる。
子供たちが泣きながら見ていた。
ラザルは立ち上がろうとした。
兵士に押さえつけられる。
「やめろ……」
「お願いだ……」
隊長は冷たく言った。
「知識は毒だ」
「奴隷に必要ない」
「考えるから不満を持つ」
「学ぶから逃げる」
「だから消す」
ラザルが笑った。
血を吐きながら。
「怖いんだな」
隊長の目が細くなる。
「何?」
「知識が」
「子供が」
「考えることが」
ラザルは笑っていた。
苦しそうに。
それでも。
誇らしそうに。
「お前たちは分かってる」
「教育が、一番強いって」
隊長が無言で剣を抜く。
子供たちが泣き叫ぶ。
「やめて!」
「先生!」
「嫌だ!」
ラザルは振り返った。
子供たちを見る。
優しい顔だった。
「泣くな」
静かな声。
「覚えてろ」
「文字を」
「言葉を」
「考えることを」
炎が燃える。
本が崩れる。
隊長が剣を構える。
ラザルは最後に笑った。
「お前たちは」
「人間だ」
剣が振るわれた。
血が飛ぶ。
悲鳴。
少女が崩れ落ちる。
小さな少年が叫ぶ。
兵士たちは無表情だった。
彼らもまた、教育を受けていない。
命令しか知らない。
考える訓練を受けていない。
だから。
疑問を持たない。
なぜ本を焼くのか。
なぜ子供の前で教師を殺すのか。
理解しない。
いや。
理解できない。
それが旧世界だった。
隊長は炎を見る。
燃える本。
燃える学校。
燃える知識。
それを見ながら言った。
「全部燃やせ」
「痕跡を残すな」
兵士たちが動く。
建物へ火が放たれる。
木材が燃える。
天井が崩れる。
子供たちは縄で縛られ、外へ連れ出された。
その中に。
一人の少年がいた。
十歳ほど。
痩せている。
奴隷紋。
涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
だが。
その手には、焼け残った紙切れが握られていた。
そこには文字。
『あ』
少年は離さない。
兵士に殴られても。
踏まれても。
離さない。
遠く。
空で風が鳴った。
夜風。
その中に。
声が混じる。
『学ぶことを諦めるな』
風魔法放送。
誰かが泣いた。
兵士だった。
若い兵士。
二十歳にもならない。
彼も奴隷出身だった。
隊長が睨む。
「どうした」
若い兵士は俯く。
答えられない。
なぜ泣いているのか。
自分でも分からない。
ただ。
胸が痛かった。
焼かれているのが、本だけに見えなかった。
隊長は吐き捨てる。
「教育など不要だ」
「人は命令だけ聞けばいい」
その言葉を。
縛られた少年が聞いていた。
震えながら。
涙を流しながら。
それでも。
小さく呟いた。
「……違う」
隊長が振り返る。
少年は震えていた。
怖い。
今にも泣きそうだった。
それでも。
言った。
「先生は……」
「違うって言ってた」
沈黙。
隊長の顔が歪む。
その瞬間だった。
遠く南方各地で。
同じような光景が起きていた。
学校が焼かれる。
教師が吊るされる。
本が燃える。
だが。
止まらない。
一人が教えれば。
十人が覚える。
十人が覚えれば。
百人へ広がる。
知識とは火だった。
燃やしても消えない。
むしろ広がる。
北方。
帝国。
報告書を読んだピーターが、静かに拳を握る。
震えていた。
怒りで。
悲しみで。
「……先生」
彼は呟く。
かつて。
泣き虫だった自分。
弱かった自分。
何もできなかった自分。
それを救ったのは教育だった。
だから分かる。
学校が焼かれる意味を。
教師が殺される意味を。
隣でグロマールが静かに目を閉じた。
怒鳴らない。
感情を爆発させない。
ただ低く言う。
「旧構造が、知識を恐れ始めた」
それは。
終わりの始まりだった。
知識を管理できなくなった国家は。
もう止まれない。
世界は。
もう繋がってしまったのだから。




