165話:循環
防壁都市グランゼル。
かつて帝国北方最大の軍事拠点だった都市は、今や別の意味で世界の注目を集めていた。
理由は単純。
飢えていないからだ。
冬を越えられず崩壊する国家が増え始める中、グランゼルだけは違った。
市場には食料がある。
水路は止まらない。
畑には作物が育つ。
病人は治療院へ運ばれる。
子供は学校へ通う。
そして何より、人々の目が死んでいない。
それは奇跡ではない。
循環だった。
巨大会議室。
長机を囲むのは、帝国地方官僚、教師団、物流責任者、農業管理官、軍務担当。
以前までなら、貴族ばかりが並んでいた席だ。
今は違う。
農民出身。
元難民。
元兵士。
元孤児。
そんな者たちが当たり前のように議論している。
部屋の中央には巨大地図。
食料輸送路。
農地再生区域。
人口流入。
死亡率。
病発生率。
全部が数字で管理されていた。
「北部第三農区。小麦生産、前月比二十二%増加」
「灌漑水路の安定化が効いています」
「病死率も減少中です」
報告するのは若い官僚だった。
灰色の短髪。
細身。
鋭い目。
貴族らしい飾り気は無い。
フェルド・レイヴン。
伯爵家次男。
レオハルト領で育った若手官僚。
最初はグロマールを信用していなかった。
無名の男が帝国を変えるなど、あり得ないと思っていた。
だが今は違う。
数字が現実を否定していた。
「物流停滞は?」
フェルドが問う。
「大型ゴーレム輸送隊により安定しています」
「補給損耗率は従来比七割減」
「冬季輸送も可能です」
「……異常だな」
フェルドは小さく息を吐いた。
普通ではない。
本来、冬とは国家を殺す季節だ。
物流は止まり。
畑は凍り。
食料は腐り。
人は奪い合う。
それが常識だった。
しかし今、その常識が崩れている。
会議室後方。
壁際で静かに資料を眺める男がいた。
グロマール。
誰よりも世界を動かしている男。
なのに、誰よりも前へ出ない男。
フェルドは何度見ても理解できなかった。
普通なら権力を握る。
英雄になろうとする。
王になろうとする。
だがグロマールは違う。
権限を渡す。
仕事を教える。
仕組みを残す。
そして、自分は消えようとしている。
「……理解できませんね」
フェルドが呟く。
グロマールは視線だけ向けた。
「何がだ?」
「なぜ、敵国まで助けたのです」
会議室が静まった。
誰もが聞きたかったことだった。
帝国兵も。
地方官も。
教師団も。
みんな疑問だった。
なぜ敵を助ける。
なぜ飢えた国に食料を送る。
なぜ自国だけ豊かにならない。
グロマールは静かに椅子へ腰を下ろした。
言葉を選ぶように数秒黙る。
「……助けたいから助けたわけじゃない」
静かな声。
だが全員が耳を傾けた。
「飢餓は略奪を生む」
「略奪は戦争を生む」
「戦争は生産を止める」
「生産停止は更なる飢餓を呼ぶ」
誰も口を挟まない。
「つまり、飢餓を放置すると全員が損をする」
フェルドが目を細める。
「感情論ではない、と」
「循環の話だ」
グロマールは地図を見る。
「食料が回る」
「物流が回る」
「教育が回る」
「治安が回る」
「人材が回る」
「循環は止めた瞬間に腐る」
会議室の空気が変わっていく。
ピーターが静かに頷いていた。
以前なら泣き虫だった少年。
今では帝国教師団の中心人物。
白い教師服を着た姿は、もう弱々しくない。
「だから先生は……敵も助けたんですね」
「敵だから飢えさせていい、なんて考えは短い」
グロマールは即答した。
「飢えた民は流れる」
「流れた民は盗賊になる」
「盗賊は物流を襲う」
「物流が止まれば帝国も死ぬ」
「全部繋がってる」
フェルドは息を呑む。
国家単位で考えていない。
もっと広い。
人間社会そのものを見ている。
セレスが小さく笑った。
「相変わらず怖い考え方」
「現実的と言え」
「現実主義が過ぎるのよ」
セレスは肩をすくめる。
それでも目は優しかった。
彼女は知っている。
グロマールが感情を切り捨てているわけではないことを。
感情だけでは救えないと知っているだけだ。
会議室後方。
帝国教師団が資料を整理していた。
総勢千人。
かつて読み書きすら怪しかった農民たち。
その全員が今、教導スキルへ覚醒している。
グロマールが教えた。
ピーターが広げた。
環境が人を育てた。
「第三教育区、教師不足解消しました」
「識字率上昇」
「魔法適性判明率増加」
「農業魔法使用率増加」
報告が飛ぶ。
地方官僚たちも変わっていた。
行政スキル。
最初は誰も理解していなかった。
だが今は違う。
水路管理。
人口整理。
病隔離。
食料分配。
全部が効率化されている。
「人って、本当に変わるんだな……」
フェルドが呟く。
隣でピーターが笑った。
「環境ですよ」
「環境?」
「昔の僕、何もできませんでしたから」
苦笑する。
「怖かった」
「失敗ばかりでした」
「でも、教えてくれる人がいた」
「失敗しても殴られなかった」
「だから続けられた」
フェルドは黙った。
帝国貴族社会では失敗は許されない。
失敗した者は潰される。
だから挑戦しない。
それが当たり前だった。
だがここは違う。
挑戦する。
失敗する。
改善する。
また挑戦する。
循環している。
会議終了後。
グロマールは窓際へ向かった。
グランゼルの街が見える。
遠くでは大型ゴーレム輸送隊が動いていた。
巨大な土ゴーレム。
積まれた大量の穀物。
雪道を踏み砕きながら進む。
民が道を開ける。
子供たちが目を輝かせる。
「……そろそろ帰るんですか?」
後ろからミレナが聞いた。
グロマールは否定しない。
「帝国は動き始めた」
「もう俺が前に出続ける必要は無い」
ミレナは少し寂しそうだった。
だが止めない。
彼女も理解していた。
グロマールは支配者じゃない。
循環を始める人。
ずっと居座る人ではない。
「レオハルトもいますしね」
セレスが壁に寄りかかる。
「あの人、もう完全に帝国側の人間になったわ」
「元から帝国側だ」
「意味わかるでしょ」
グロマールは少しだけ笑った。
レオハルトも変わった。
帝国も変わった。
民も変わった。
環境が人を育てた。
なら次は。
人が環境を育て始める。




