158.5話:譲位
帝国中央。
帝都ヴァルディス。
皇宮最上階。
皇宮中央区画。
最上階、皇帝執務室。
夜だった。
巨大な窓の外では、無数の魔導灯が帝都を照らしている。
かつての帝都は暗かった。
貧困地区には灯りすら届かず、病人は路地で倒れ、冬になれば凍死者が並ぶ。
物流は腐り、税は重く、地方は痩せ、貴族だけが肥えていた。
それが帝国の日常だった。
だが今。
帝都は動いている。
夜でも倉庫が稼働し、工房では新型ゴーレムの整備が進む。
教育省の施設では、夜間講義すら始まっていた。
人が。
国家が。
止まらなくなっていた。
執務室には数名だけ。
前皇帝。
レオハルト。
軍務大臣。
教育省代表。
そして若き皇子。
静かな空間だった。
机の上には大量の報告書。
地方視察。
教育改革。
食料生産。
移民流入。
農地拡張。
覚醒者増加。
行政効率改善。
物流再編。
どれも異常な数字だった。
前皇帝は静かに報告書を閉じる。
老いた指だった。
長く帝国を支えてきた手。
「……信じられんな」
小さな声。
教育省代表が答える。
「ですが全て事実です」
「特に地方都市の変化が顕著です」
別の報告書が開かれる。
山岳都市メタルビレッジ。
食料自給率。
覚醒者数。
病死率低下。
農地面積拡張。
魔導インフラ。
ゴーレム稼働数。
どれも急上昇していた。
軍務大臣が低く唸る。
「農民がここまで育つとは……」
レオハルトが静かに答えた。
「教育されたからです」
「魔力を扱えなかったのではありません」
「教わっていなかっただけです」
前皇帝は目を閉じる。
その言葉が重かった。
帝国は長く勘違いしていた。
貴族だけが優秀。
民は愚か。
教育は選ばれた者だけの物。
そう思い込んでいた。
だが違った。
違ったのだ。
民は最初から力を持っていた。
環境が無かっただけ。
教育が無かっただけ。
前皇帝はゆっくり立ち上がる。
窓際へ歩く。
帝都を見る。
その光景は、美しかった。
だが同時に。
恐ろしくもあった。
「速すぎる」
誰へ向けた言葉でもない。
「十年で変わるはずのものが、一年で変わっている」
「国家が追いついておらん」
教育省代表が頷く。
「地方役人ですら複数属性へ覚醒しています」
「行政系スキルも増加」
「教師陣の処理能力も大幅に向上」
「地方自治機能も改善しています」
軍務大臣が苦笑した。
「軍も同じだ」
「民兵が正規兵並みに統率され始めている」
「飛行魔法まで取得し始めた」
「もはや旧時代の軍制では管理できん」
レオハルトは静かだった。
だが、その目は真剣だった。
彼も理解している。
帝国は限界に来ている。
前皇帝は低く呟く。
「余は……老いた」
誰も否定しない。
それは事実だった。
無能だからではない。
むしろ逆。
前皇帝は優秀だった。
崩壊しかけた帝国を維持し続けた。
飢饉。
内乱。
貴族腐敗。
地方反乱。
その全てを抑え込んできた。
だが。
時代そのものが変わり始めた。
前皇帝は振り返る。
若き皇子を見る。
「お前は地方を見たな」
皇子は頷く。
「はい」
「農村も」
「鉱山都市も」
「教育施設も見ました」
「民は愚かではありませんでした」
「学ぶ機会が無かっただけです」
前皇帝は静かに笑った。
「そうだ」
「そこまで見えているなら十分だ」
皇子が息を呑む。
執務室の空気が変わる。
前皇帝は椅子へ戻る。
ゆっくり座る。
そして。
静かに言った。
「譲位する」
空気が止まった。
軍務大臣が目を見開く。
「陛下……!」
教育省代表も言葉を失う。
皇子自身が固まっていた。
レオハルトも目を細める。
驚いていた。
だが。
どこか納得していた。
前皇帝は続ける。
「余では、この速度についていけぬ」
「帝国は変わる」
「ならば、変われる者が座るべきだ」
皇子が震える声を出す。
「父上……」
前皇帝の目は穏やかだった。
疲れていた。
だが。
逃げてはいない。
現実を理解した者の目だった。
「余は帝国を守った」
「次は」
「帝国を変える時代だ」
その瞬間だった。
皇子の身体から巨大な魔力が溢れた。
ゴォォォォォ……!
空気が震える。
執務室全体へ圧力が広がる。
軍務大臣が息を呑む。
教育省代表も目を見開いた。
「これは……!」
金色の魔力循環。
濁りが無い。
巨大。
安定。
圧倒的。
皇子自身が混乱していた。
「な、何だこれは……!」
光が収束する。
視界に文字が浮かぶ。
【皇帝】
皇子の呼吸が止まる。
軍務大臣が膝をついた。
教育省代表も頭を下げる。
若くして発現する例など、歴史上でも極めて少ない。
レオハルトも静かに目を細めた。
驚いていた。
だが同時に納得もしていた。
この男は現場を見ている。
地方を知っている。
民を知っている。
数字だけではなく、現実を理解している。
だからこそ。
帝国そのものが認めた。
次代の皇帝として。
前皇帝だけは静かだった。
まるで最初から分かっていたように。
「……発現したか」
皇子が震える。
「皇帝スキル……」
皇帝スキル。
国家運営系統最高峰。
統率。
行政。
外交。
軍制。
民意。
国家そのものへ補正を与える超希少スキル。
血筋だけでは発現しない。
民に認められなければ発現しない。
だからこそ。
歴代皇帝でも発現者は少ない。
前皇帝は静かに笑う。
「帝国がお前を選んだ」
「ならばもう迷うな」
皇子は膝をついた。
強く。
深く。
「必ず」
「帝国を変えてみせます」
前皇帝は頷く。
窓の外。
帝都グランゼル。
無数の灯りが輝いていた。
それはまるで。
古い時代の終わりと。
新しい時代の始まりを照らす光のようだった。




