154話:空腹
帝都の空気が変わっていた。
昨日まで怒鳴っていた者たちが、今日は静かだった。
人は本当に恐ろしい時、声を失う。
市場。
食堂。
酒場。
兵舎。
どこでも話題は同じだった。
「食料がない」
それは帝都の人間にとって、あまりにも久しぶりの感覚だった。
帝都北部兵舎。
若い兵士が、空になった鍋を見つめていた。
「……終わりかよ」
鍋底には、芋の欠片が少しだけ残っている。
普段なら。
肉。
豆。
黒パン。
スープ。
最低限の食事は出ていた。
それが今はない。
補給停止。
たったそれだけで、帝都は崩れ始めていた。
隣で年上の兵士がため息を吐く。
「マジで来ないんだな……」
「補給隊は?」
「止まった」
「なんで?」
「知らねぇ」
兵士たちは顔を見合わせる。
しかし。
皆、薄々気づいていた。
原因は。
旧貴族派だ。
「余計なことしやがって……」
誰かが呟く。
帝国軍は、馬鹿ではなかった。
彼らは知っている。
今、帝国を支えているのは誰か。
教育。
農業。
物流。
治療。
魔導灯。
ゴーレム。
その全てを回しているのは。
グロマール派閥だった。
「同じ帝国兵なのに……」
若い兵士が頭を抱える。
「同志と戦うのは嫌だよー……」
その声に。
誰も反論できなかった。
戦いたくない。
本音だった。
相手は敵国ではない。
帝国民なのだ。
同じ釜の飯を食った仲間。
共にアンデッドを狩った仲間。
ドラゴンと戦った仲間。
それを理解しているからこそ。
帝国軍は動けなかった。
帝都中央倉庫。
巨大な倉庫群は、半分以上が空になっていた。
倉庫管理者が青ざめている。
「小麦残量、あと三日!」
「塩二日!」
「干し肉、一日半!」
「馬鹿な……」
貴族が叫ぶ。
「何故補給されん!?」
管理者は震えながら答えた。
「輸送隊が動きません……」
「何故だ!!」
「農民が従わないんです!」
「鍛冶師も!」
「荷運びも!」
「全員、教育省側です!!」
沈黙。
絶望。
旧貴族たちは理解し始めていた。
もう。
帝国は。
自分たちのものではない。
その頃。
帝都外縁部。
炊き出し場。
大鍋から湯気が立ち上っていた。
豆。
芋。
根菜。
そして少量の肉。
豪華ではない。
しかし。
空腹の民には十分だった。
配給を行っていたのは、教育省所属教師たちだった。
「慌てず並んでください」
「子供優先です」
「病人はこちらへ」
人々が整然と並ぶ。
暴動は起きない。
何故なら。
教育を受けた民は知っている。
奪い合えば全員死ぬ。
分け合えば全員生きる。
それを教えたのは。
グロマールだった。
帝都治療院。
ミネルバは倒れ込むように椅子へ座った。
「……ふぅ」
隣で若い治癒師が慌てる。
「ミネルバ先生! 休んでください!」
「大丈夫です」
笑う。
しかし顔色は悪い。
治療院は限界だった。
空腹。
疲労。
不安。
民衆の心が削られている。
そこへ。
小さな女の子が近づいてきた。
「せんせい……」
「どうしました?」
「おなか、すいた……」
ミネルバは一瞬だけ目を伏せた。
そして優しく笑う。
「大丈夫ですよ」
「今、食事を持ってきますね」
少女は涙を浮かべる。
「ありがとう……」
その瞬間。
ミネルバの胸が痛んだ。
空腹。
それは病より残酷だ。
人を壊す。
理性を奪う。
優しさを消す。
だからこそ。
グロマールは最初に農業を重視した。
食料充足率。
それは国家の命だった。
帝都中央管理塔。
ジミーは帳簿を睨んでいた。
「……やっぱ早ぇな」
教師が聞く。
「何がです?」
「崩れる速度」
ジミーは静かに言った。
「帝都は、自分で作れなくなりすぎてる」
そこへ通信が届く。
『北区兵舎、一部兵士暴走の兆候』
『制圧可能か?』
ジミーは即答した。
「マイク呼べ」
数分後。
マイク直属防衛部隊が到着する。
兵士たちは警戒した。
しかし。
マイクは剣を抜かなかった。
「腹減ってんだろ」
そう言って。
配給用の袋を投げる。
兵士たちが呆然とする。
「……いいのか?」
「食え」
「俺たち、命令出たらお前らと戦うかもしれねぇぞ」
マイクは鼻を鳴らした。
「だったら余計食っとけ」
「腹減ってたら頭回んねぇだろ」
兵士たちが笑った。
緊張が解ける。
その時。
若い兵士が震えながら言った。
「……嫌なんだよ」
「同じ帝国兵と戦うの」
静寂。
マイクはしばらく黙っていた。
そして。
低い声で言う。
「俺もだ」
兵士たちが顔を上げる。
「だから戦わせねぇ」
「それが俺らの仕事だ」
その言葉は。
不思議なほど重かった。
マイクは理解していた。
力で潰すのは簡単だ。
しかし。
それでは終わらない。
恨みが残る。
憎しみが残る。
だから。
“戦わせない”
それが最善だった。
同時刻。
皇宮。
レオハルトは報告書を見ながら苦笑していた。
「兵士まで教育省側か」
皇帝も静かに頷く。
「当然だ」
「腹を満たした者に、人は従う」
その言葉には重みがあった。
貴族は長年勘違いしていた。
人は恐怖で従うと。
違う。
人は。
“生かしてくれる者”
に従うのだ。
皇帝が窓の外を見る。
帝都は暗かった。
しかし。
完全には消えていない。
魔導灯が灯っている場所がある。
配給所。
治療院。
教育省。
民が集まる場所だけ。
そこには。
確かな光があった。
その頃。
帝都地下。
旧貴族たちは追い詰められていた。
「兵を出せ!!」
「無理です!」
「何故だ!!」
「兵が動きません!!」
「食料がありません!!」
「民も協力しません!!」
机が叩き割られる。
「ふざけるな!!」
しかし。
もう遅かった。
彼らは理解していなかった。
国家とは。
民で出来ている。
農民。
物流。
教師。
兵士。
鍛冶師。
治癒師。
その全てを軽視した時点で。
既に負けていたのだ。
帝都の夜。
空腹に苦しみながらも。
人々は暴動を起こさなかった。
教育が残っていたから。
助け合いが残っていたから。
そして。
希望が残っていたから。
「配給は明日もあります!」
教師の声が響く。
人々が静かに頷く。
その光景を見ながら。
ジミーは小さく呟いた。
「……戦わねぇ方が、強ぇんだよ」
誰にも聞こえない声だった。
しかし。
それは確かに。
帝国を変え始めていた。




