8話 罠
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翌朝、目覚めたエドの胸には、まだ昨夜の温もりが残っていた。
母に打ち明けたこと。自分の中にあるもうひとつの記憶。そして、魔法を失ってしまったこと。
そのすべてを、母は驚きながらも受け止めてくれた。
起き上がり、階段を降りると、台所から香ばしい匂いが漂ってきた。
焼き立てのパンの香りに、野菜を煮込む優しい匂いが混じり合う。
母はいつもと変わらぬ手つきで朝食の支度をしていた。
その横顔を見ただけで、エドの胸はまたほんのりと温かくなる。
昨夜、あれほど大きな話しをしたというのに、今朝の母はいつも通りだった。
その変わらなさが、何よりもありがたかった。
朝食を終え、片づけを手伝っていると、戸口を叩く軽やかな音が響いた。
「エド、いる?」
聞き慣れた声に扉を開けると、そこにはアニタが立っていた。
朝の陽ざしを受けて、栗色の髪がやわらかく輝いている。
肩のあたりで揺れる髪は、光を含んではちみつ色にも見えた。
大きな瞳は澄んだ琥珀色で、こちらを見つめるたびに生き生きとした光を宿す。
日に焼けた頬には健康的な赤みが差し、その表情には、いつものように明るく快活な笑みが浮かんでいた。
「今日は薬草採取に行くんだけど、一緒に来てくれない?」
アニタは少しだけ照れたように笑った。
村では薬草採取は珍しい仕事ではない。だが、薬として使える植物は種類も多く、
似た姿のものも少なくない。見分けを誤れば、効き目が薄いどころか、時には害になることさえある。
その点、エドは村の中でも特に植物に詳しかった。
古小屋に眠っていた古い図鑑を何度も読み返し、挿絵と実物を照らし合わせながら覚えてきたからだ。
薬草だけでなく、食べられる野草や毒草の見分けにも明るい。
アニタもそのことをよく知っている。だからこそ、こうして声をかけに来たのだろう。
「もちろん、ちょうど体も動かしたかったところだ。」
そう答えると、アニタはパッと顔を明るくした。
リラは扉の奥から顔をのぞかせると、アニタの姿を見てふっと微笑んだ。
「まあ、アニタちゃん。朝から元気ね。」
「おはようございます、リラさん。今日は薬草採取に行くんです。エドを借りてもいいですか?」
リラはエドとアニタを見比べ、うなずいた。
「もちろんよ、アニタちゃんと一緒なら安心だわ。」
その言葉に、アニタは少し照れたように笑う。
「任せてください、ちゃんと連れて帰りますから。」
「ふふ、お願いね。」
リラに見送られ、エドとアニタは並んで家を後にした。
朝の空気は澄み渡り、胸いっぱいに吸い込むと、草や土の匂いが心地よく鼻をくすぐる。
村の中ではすでに一日の営みが始まっていた。
家々の煙突からは白い煙が立ちのぼり、道端では井戸水を組む人の姿が見える。
畑で作業をしているヴァンスたちが二人に手を振り、アニタはそのたびに明るく手を振り返した。
そんな様子からも、彼女が村のみんなに親しまれていることがよくわかる。
やがて家並みが途切れると、目の前にはなだらかな丘が広がった。
風に揺蕩う草々はやわらかな緑に染まり、朝露をまとってきらきらと輝いている。
丘を渡る風はまだ少し冷たかったが、日差しはやわらかく、歩く足取りを軽くしてくれる。
「エド、もう体調は大丈夫?この前、とっても心配したんだから。」
先日、倒れこんだ自分を案じる彼女の顔が脳裏によみがえる。
あのときの不安げな表情を思い出し、エドは少しだけ苦笑した。
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめん、」
そう答えると、アニタは安心したように微笑んだ。
「ならよかった、今日はしっかり働いてもらうからね!」
「わかったよ。それで、今日は何を集めるんだ?」
「チドメ草よ。擦り傷や切り傷に効くから村でもよく使うでしょ?」
チドメ草は地面を這うように葉を広げる丈夫な草だ。
丸みを帯びた葉の裏はほんのり白く、手で揉みつぶすと独特の青い香りがある。
見た目は素朴だが、揉んで傷口にあてれば血を止め、炎症を和らげる。
汎用性の高い薬草として知られている。
「チドメ草は葉の裏が白いだろ。あの青っぽい匂いも特徴なんだ。葉の裏が白くないよく似た草もあるけどそれは別の草で、間違えると効き目がないから。」
「だからエドが必要なのよ。私一人だと、つい似た草まで摘んじゃいそうだもの。」
アニタはそう言って笑った。
「任せてよ。」
エドがそう言うと、アニタは嬉しそうに頷いた。
丘を越え、森の入り口近くまで来ると、二人は足元に広がる草むらへ目を向けた。
「ほら、このあたりに多いの。」
アニタがしゃがみ込み、草をかき分ける。その指先を追いながら、エドも地面へ視線を落とした。
丸い葉が地を這うように広がり、その裏側にはうっすらと白い色がのぞいている。
「うん、間違いない。いいチドメ草だ。」
エドは葉を一枚摘み取り、軽く揉んで香りを確かめた。
青々とした独特の匂いがふわりと立ちのぼる。
二人は籠を手に、丁寧にチドメ草を摘んでいった。根を傷つけないよう、必要な分だけを選んで摘み取る。
そうすれば、また新しい葉をつけてくれる。
「エドって、本当にこういうの詳しいよね。」
アニタが感心したように言う。
「本で読んだだけじゃなくて、実際に見て覚えたからね。似ている草ほどちゃんと見ないとだから。」
そう話しながらも、エドの手は迷いなく動く。
葉の色、形、香り。ひとつひとつを確かめながら、良質なものだけを選んでいく。
やがて籠の底に、鮮やかな緑が少しずつ積み重なっていった。
そのときだった。
風に乗って、かすかなすすり泣きが耳に届いた。
最初は、風が木々を揺らす音に紛れた気のせいかと思ったが、
耳を澄ますと、それはたしかに子供の泣き声だった。
アニタが顔をあげる。
「......今、聞こえた?」
エドも小さく頷く。
泣き声は、森のそばの、少し離れた茂みの向こうから聞こえてきていた。
「子供の声みたい。」
アニタは心配そうに眉を寄せた。
「様子を見に行こう。」
そう言って、二人は顔を見合わせると、慎重に声のするほうへ歩き出した。
茂みをかき分けた先、子供が一人、地面にしゃがみこんでいた。
自分たちより2,3歳は幼いだろうか。
癖のある黒い髪は涙で頬に張り付き、丸い肩を震わせながら、声を押し殺すように泣いている。
着ている服は土で汚れていたが、見覚えのない仕立てだった。
少なくとも、この村の子供たちが普段身に着けているものとは少し違う。
エドは思わず眉をひそめる。
この近くの子ではない――。
こんな場所に、子供が一人でいることに、胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれた。
「どうしたの?一人なの?」
アニタは目線を合わせるようにしゃがみ込み、できるだけ優しい声で問いかけた。
「お、お兄ちゃんたちが......」
アニタがさらに身をかがめた、その瞬間だった。
泣きじゃくっていたはずの子供の口元が、ふっとつりあがる。
「――かかった」
次の瞬間、森の周囲の茂みが、一斉に揺れた。
茂みから飛び出した二人の男は、獲物にとびかかる獣のように素早かった。
「エド、下がって!」
アニタの手から放たれた強風が、片方の男をひるませる。
だが、その隙を突くように、もう一人の男がエドへ襲いかかった。
とっさに身を引いたが、重い拳が頬をかすめる。
鈍い衝撃に、体が大きくよろめいた。
続けざまに、みぞおちへ膝蹴りが突き刺さる。
息が一気に詰まり、膝が崩れ落ちた。
地面に膝をついた瞬間、襟首をつかまれる。
そのまま、頭を地面へ叩きつけられた。
視界がぐらりと揺れる。
耳鳴りが響き、世界が遠ざかっていく。
霞む視界の向こうで、アニタの叫び声が聞こえた。
「エド――!」
その声を最後に、意識は深い闇へと沈んでいった。
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