9話 誘拐
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最初に戻ってきたのは、鈍い痛みだった。
後頭部の奥で、脈打つたびにずきりと響く。
まぶたはひどく重く、開けるだけでひと苦労だった。
鼻をつくのは湿った土と古い木、そして苦いたばこの匂い。
どこかひんやりとした空気が、肌を撫でていく。
ここは――
薄く目を開けると、ぼんやりとした光が視界に滲んだ。
小さな窓から差し込む、細い一筋の光。
その淡い明りのなかで、自分が見知らぬ木造の部屋にいることを知る。
断片的な記憶が脳裏をよぎる。
泣いていた子ども。駆け寄るアニタ。
不意に迫る気配、衝撃――。
「......アニタ!」
はっと身を起こし、慌ててあたりを見回す。
すぐ傍らに、アニタの姿があった。
手足を縛られ、口を布でふさがれたまま、床に横たわっている。
だが、胸は微かに上下していた。
生きている――。
その事実に、エドは息をついた。
だが、すぐに違和感を覚える。
自分の手足は自由なのに、アニタだけが厳重に拘束されている。
手首も足首も縛られ、口までふさがれている。
風の魔法を使わせないためだろうか。
いずれにせよ、連中はアニタの力を警戒しているのは間違いない。
しかも、よく見るとアニタには目立った外傷はなく、衣服にも乱れがない。
薬か、それとも魔法か。
何らかの手段で眠らされているのだろう。
泣いているふりをしていた子供のこともある。
そう考えると、これは突発的な犯行ではない。
あらかじめ準備された、計画的な誘拐だ。
自分は暴力的な手段によって気を失った。
つまり、最初から狙われていたのはアニタの方だ。
自分はあの場に居合わせために巻き込まれたのだろう。
そう考えるのが自然だった。
エドは膝をつき、そっとアニタの肩に手を置いた。
「アニタ......。」
小さく呼びかけながら、ゆっくりと肩を揺する。
反応は無い。
だが、呼吸は規則正しい。深く眠っているだけのようにも見える。
「アニタ、起きて。」
今度は少しだけ強く揺する。
その声に、アニタのまぶたがかすかに震えた。
やがて、アニタはゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳がエドを捉え、次いで周囲へ向く。
そして、自分の状況に気づいた瞬間、目を大きく見開いた。
「んぐっ......!」
布越しのくぐもった声が漏れる。
エドはすかさず口元に指をあてた。
「大丈夫。静かに。」
アニタが小さく頷くのを確認すると、エドはそっと口をふさいでいた布をほどいた。
「ぷはっ......」
アニタは小さく息をつき、何度か深呼吸を繰り返す。
エドはすぐに手を縛っている縄に指をかけたが、結び目は固く、びくともしない。
背中側で複雑に縛られており、子どもの力では簡単にほどけそうになかった。
足首をしばっている縄も同様に、いますぐ何とかするのは無理そうだった。
「ごめん、縄はほどけそうにない。後で何とかするとして、今は状況を確認しようか。」
「気分はどう?どこか痛む?」
エドが尋ねると、アニタは少しだけ眉をひそめ、それから小さく首を横に振った。
「大丈夫、ちょっと頭がぼんやりするけど。」
「それならよかった。」
エドは少しだけ安心した表情を見せた。
「誰かに狙われるような心当たりはある?」
アニタは困ったように視線を落とし、しばらく考え込んだ。
「......ないと思う。少なくとも、私は知らない。」
その答えに、エドは小さく頷く。
エドは立ち上がり、部屋の中を見回した。
粗末な木造の部屋。壁板には隙間があり、湿った空気がわずかに入り込んでいる。
窓は高い位置に一つだけ。小さく、とても人が通れる大きさではない。
扉は厚い木製で、外から鍵がかけられているようだった。
部屋の隅には古びた木箱と水桶が置かれている。
ほかに使えそうなものは見当たらない。
エドは扉にそっと耳を当てた。
わずかに男たちの話し声がかすかに聞こえた。
少なくとも、見張りは一人ではなさそうだった。
しばらくすると、扉の向こうで鍵の外れる音がした。
軋む音とともに扉が開く。
入ってきたのは、エド達とそう年の変わらない、あの子供だった。
つやのない黒髪は肩口で不揃いに切り揃えられ、前髪は少し長く、目元に影を落としている。
痩せた頬に浮かぶ表情は硬く、その瞳には年齢に似合わない警戒の色が宿っていた。
両手には、パンを一切れずつ持っている。
「なんだ、もう起きたのか。」
少年は、呆れたように、それでいて無機質な声で言った。
エドは少年を見つめた。
そばに駆け寄った際に見せたあの怯えた表情は、もうそこには影も形もない。
やはり、あれは演技だった。
だが、その顔には勝ち誇った色も、悪意に満ちた笑みもなかった。
「食え。」
少年はそういうと、手にしていたパンをこちらへ放った。
パンは床に落ち、ごとりと音を立てて転がった。
「こんなの、食べるわけ――」
アニタが怒りかけるが、エドがそれを静かに制した。
「いや、いただこう。」
エドが床に落ちたパンを拾うことで、少年は少し意外そうな反応を見せる。
「ふん。まあ、君は動けるみたいだけど、あまり変なことは考えない方がいい。」
「君たちはもう二度と帰れないんだから。」
少年は、静かに、冷たく言い放った。
「ありがとう。教えてくれて。食事も、ありがたくいただくよ。」
エドはあえて、穏やかな声で礼を言った。
少年の目が、わずかに細くなる。
一瞬だけ意表を突かれたような色が浮かんだが、それはすぐに消えた。
代わりに現れたのは、より鋭い警戒心だった。
「......気味の悪い奴だな。」
吐き捨てるようにそういうと、少年はエドを睨みつけた。
それでもエドは、まるで意に介さないように口を開く。
「パンはうれしいん。でも、彼女はそのままじゃ食べられない。せめて手だけでもほどいてくれないか?」
少年の表情がさらに険しくなる。
「駄目だ。」
即答だった。
「どうせ逃げられないんだ。すこしくらい――」
「知らない。這ってでも食べればいい。」
そこにあったのは、まぎれもない敵意だ。少なくとも、この少年はそう見せようとしている。
だが、本当にこちらを拒み切っているのなら、わざわざ言葉を返したりはしない。
少年は応じ、拒絶の言葉を重ね、なおこちらを睨みつけている。
エドは、そのなかにわずかな綻びを見ていた。
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