10話 虚勢
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エドは、床に無造作に投げ捨てられたパンを拾い、小さくちぎった。
まずは自分で一口食べる。問題がないことを確かめると、もう一片をちぎり、アニタへ差し出した。
「ほら、少しずつ食べるといい。」
アニタは不満そうな顔をしながらも、素直に口を開く。
その様子を、黒髪の小柄な少年は扉のそばで黙って見ていた。
パンを届けただけなら、すぐに立ち去ればいい。
それなのに、少年はそこを動こうとしない。
食べ終わるまで見届けるつもりなのか。それとも、別の目的があるのか――。
エドはアニタにパンを食べさせながら、少年には視線もむけずに口を開いた。
「......君も大変だな。」
少年は眉をひそめる。
「え?」
「危ない役目をおしつけられて、そのうえ報酬ももらえない。」
エドは、少年の息がわずかに止まったのを見逃さなかった。
「君の役目が、いちばん危険だった。」
少年の表情が強ばる。
「本当に大切な仲間なら、そういう危険な役目は経験のある大人が引き受けるものだろう?」
エドはなおも、穏やかな口調を崩さない。
そして少年の方を向き直り、言った。
「それでも君が選ばれた。......なぜだと思う?」
少年は答えなかった。
だが、握りしめた拳に力がこもる。
視線がわずかに揺れ、唇が何かを言いかけては閉じた。
「君もうすうす感じていたんだろう?」
なおも、エドは優しい口調で続けた。
「本当にあの二人を信じてよいのか。いつか自分も、都合よくつかわれるだけではないのか――と。」
「……そんなこと、ない」
少年は震える唇で、弱々しく否定した。
「そうだね。そう思いたいのは当然だよ。」
エドの声は、責めるでも嘲るでもなく、ただ静かだった。
「信じたい相手を疑うのは、とても辛いよね。
でも、疑うことは裏切りじゃないんだ。自分を守るために必要なことなんだよ。」
その言葉に、少年は目を見開く。そして、小さく呟く。
「自分を、守る......。」
「そう、君の命も、君の心も、誰かの都合の為にあるわけじゃないんだ。」
エドは少年へ視線を向け、穏やかに微笑んだ。
少年は息を呑む。
「自分を大切にできない者は、いつか他人にも大切にされなくなる。」
「だから、まずは自分を守ることを覚えようか。」
エドは静かに言った。
「でも――。どうすれば.....。」
少年の声から、この部屋に入ってきた際の刺々しさは消えていた。
指先が微かに震え、戸口に寄りかかっていた身体も、今はただ立ち尽くすばかりだった。
その瞳には、もはや警戒ではなく、戸惑いの色。
「大丈夫、簡単だよ。」
エドは穏やかに微笑む。
「まずは、順番に考えていけばいいだけ。」
少年は救いを求めるようにエドに視線を向け、言葉を漏らす。
「順番に......。」
「そう。順番にだ。たとえば、僕たちが気を失ったあと、あの二人はどうやってここまで運んできた?」
エドは静かに続ける。
「ここに到着するまで、君の力は借りなかったんじゃないかな?」
「確かに、運ぶのは、あいつら二人だけで十分だった。ここは村からまだそんなに遠くないし......。」
少年は少し考えながらも答えた。
エドは頷き、続ける。
「そうだよね。それに、この扉の外の見張りだって、君一人にはさせなかっただろう?」
「うん、二人が部屋の外で交代で見張るって......。」
応えながら、少年の表情にかすかな陰りが差した。
自分がまかされていると思っていた役目が、実際にはそうではなかったと気づいたのだ。
エドは再び小さく頷く。
「やはり、君一人にすべてを任せるつもりはないんだね。」
その言葉に、少年の表情は曇り、わずかに眉を寄せる。
「......でも」
口を開きかけ、少年ははっとしたように言葉を漏らした。
「夜明け前の交代のときだけ、起こしに行く必要があるから、僕一人だ......!」
――かかった。
エドは心の中で静かに頷いた。脱出に必要な駒は、ほぼ揃った。
この隠れ家は村からそこまで遠くない。
見張りは襲ってきた大人二人だけ。
そして、夜明け前には必ず隙が生まれる。
直後に、エドはその言葉を優しく受け止めた。
「なるほど、君は、その大事な時間を任されているんだね。」
エドは穏やかに頷いた。だが、その表情にわずかな陰りを差す。
「......ただ、少し気になることがある。」
少年は不安げに目を瞬かせた。
「え?」
「これまで、彼らは君を一人にしなかった。」
エドは静かに言葉を選ぶ。
「それなのに、一番手薄になるその時間だけ、君一人に任せる。」
少年の顔色が変わる。
「それは、本当に信頼しているからのか。それとも――」
少年はごくりと唾を飲み込んだ。
「最初から何か違和感があったんだ。」
少年は真剣なまなざしで、無言でうなずく。
「もし最初から、誘拐する対象が僕ら二人だけじゃなかったら――」
そうエドがつぶやくと、少年の顔はみるみる青ざめる。
「君だけなら、まだここから逃げられるかもしれない。決断は早い方がいい。」
エドはまっすぐ少年を見つめて言った。
「でも、お前たちは......。」
「僕たちのことはいい。」
エドは静かに首を振る。
「まずは、自分を守ることだけを考えるんだ。」
少年はうつむき、しばらく黙り込んだ。
指先がわずかに震え、何かを必死に考えている。
やがて、ゆっくりと顔をあげた。
その瞳には、先ほどまでの迷いとは違う光が宿っている。
「......どうせ、僕が動けるのは夜明け前の交代のときだけだ。」
少年は小さく、しかしはっきりと言った。
「そのとき、こっそり鍵を開けておく。」
一度言葉を切り、エドをまっすぐ見つめる。
「逃げるなら、その時だ。一緒に行こう。」
エドは静かに微笑んだ。
「ありがとう。」
その一言に、少年は少しだけ照れたように視線を逸らす。
だが、その横顔にはもう、先ほどまでの険しさはなかった。
「......僕は、ルナだ。」
そう差し出された右手と、ぽつりと告げられた名に、エドは目を細める。
「よろしく、ルナ。」
差し出されたか細く白い手を、しっかりと握り返す。
手を離すと、ルナは部屋から出ていく。扉を開ける直前、一度だけ振り返る。
「夜明け前だ。そのときに、また。」
それだけ言い残すと、扉が閉まり、再び部屋に静寂が戻る。
エドは深く息を吐いた。これで脱出への道筋は整った。
夜明け前。手薄になる見張り。鍵は開く。そして、森を進む案内役もできた。
あとは、その瞬間を逃さないだけだ。
「......エド。」
隣から、小さな声がした。
振り向くと、アニタがまっすぐにエドを見つめていた。
拘束されたままの身体は不自由そうだったが、その瞳には先ほどまでの怯えはない。
「すごいね。」
「え?」
「だって、あの子。来たときはあんなに敵意むき出しだったのに......帰るときは、全然違う顔をしてた。」
エドは少し照れくさそうに笑った。
「ただ、気づいてもらっただけだよ。」
――ただ、積み木を下から一つずつ積み上げただけだ。
「それより、アニタ。手足の拘束を取ろうか。」
「えっ、これとれるの?」
アニタはおどろいたように目を丸くした。
「うん、ちょっと待ってて。」
エドは部屋の隅にある古い木箱へ歩み寄った。
箱の端から細い木片を一本折り取り、それを持って戻る。
そして、紐の結び目の隙間に木片を差し込み、てこの原理でゆっくりとひねった。
固く締まっていた結び目が、じわりと緩む。
「あ......!」
あとは指先で簡単にほどけた。
手首、足首と順に拘束を解かれていくたび、アニタの表情も少しずつ明るくなっていく。
「すごい......本当にとれちゃった。」
エドはほどいた紐を手に取り、軽く引いて強度を確かめる。
まだ十分使える。
「これは後で役に立つかもしれない。持っておこう。」
夜明け前まであとわずか。
準備は、着実に整いつつあった。
――次にこの扉が開くとき、すべてが動き出す。
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