11話 脱出
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夜明け前。外はまだ深い闇に包まれていた。
小さな窓から差し込むかすかな月明かりが、石造りの部屋の床に淡い影を落としている。
冷えた空気が肌を刺し、静まり返った室内には、遠くで鳴く鳥の声すらまだ聞こえない。
エドとアニタは、扉のそばに身を寄せ合うように座っていた。
約束の時は、見張りが交代する夜明け前。
ルナが鍵を開けに来る。
それまで、ただ待つしかない。
アニタは膝を抱え、小さく息を吐いた。緊張からか、それとも恐怖からか、
その肩はわずかにこわばっている。
エドはそんな彼女の様子を横目で見ながら、耳を澄ませていた。
外から聞こえる足音、物音、その一つひとつに意識を集中させる。
ここを無事に出られるかどうかは、これからの数分にかかっているのだから。
「......エド」
不意に、アニタがかすれるような小声で名を呼んだ。
エドは顔を向けず、わずかに視線だけを彼女に向ける。
薄闇の中、アニタは膝を抱えたまま、指先をぎゅっと組み合わせていた。
その白い指先には力が入り、こわばった肩が彼女の緊張を物語っている。
「ほんとに、うまくいくかな?」
押し殺した声は、かすかにふるえていた。
不安を隠そうとしているのに、それでも隠しきれない揺らぎが伝わる。
エドは、しばらく黙っていた。
外の気配に耳を澄ませながら、静かに息を整える。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「その時に応じて、最適な行動をとれば、必ず。」
その声は穏やかで、けれどその奥には、揺るぎない意志をアニタは感じた。
「ルナが来たらすぐに動くよ。慌てなくていい、僕の後にしっかりついてきて。」
その言葉はアニタにとって、闇の中に小さな灯をともすようだった。
アニタはしばらくエドを見つめていたが、やがてこくりと小さく頷く。
「うん。」
か細く不安な声には、先ほどよりもわずかに力が戻っていた。
その返事を聞いて、エドは胸の奥でそっと息を吐く。再び、静寂が二人を包み込む。
だが、それはさきほどまでの不安に満ちた沈黙ではなかった。
同じ闇の中にいながら、二人の間には確かな信頼と覚悟が静かに息づいていた。
しかし、エドはアニタの覚悟とは裏腹に強い緊張を抱えていた。
村からはそう遠くないとルナは言っていた。
だが、それがどれほどの距離なのかはわからない。子どもの感覚での近さかもしれないし、
大人の足でも相応の時間を要するかもしれない。
しかも、外はまだ夜明け前。森は深い闇に沈み、足元さえおぼつかないだろう。
枝を踏み、石につまずき、ほんのわずかでも足を止めれば、それが致命的な遅れになる。
案内役はルナ。彼を疑うつもりはないが、まだ幼い少年だ。恐怖と焦りと暗闇の中で、
どこまで冷静に道を示せるかも未知数だ。
さらに追手の二人は、異変に気づけばすぐに追ってくるだろう。
森での追跡に慣れているのか、どれほど執拗に食らいついてくるのか、それすらわからない。
正直、不確定要素が多すぎる。
逃走の成功は実力だけでは決まらない。運にも、大きく左右されるはずだ。
だが、それでも進むしかない。
そして何より、今回の誘拐はおそらくアニタを狙った明確な意図を持つ犯行である可能性が高い。
たとえ無事に村へ戻れたとしても、実行犯の二人を野放しにしたままでは危険は去らない。
また狙われるかもしれない。次は今回のように運よく逃げられる機会が訪れるとは限らない。
ただ逃げ切るだけでは終わらない。
最終的には、あの二人を完全に無力化しなければならない。
そのためにも、まずは生きてここを出ること。
エドは膝の上で、そっと拳を握り締めた。
焦るな。
下から、一つずつ積み上げていけばいい。
そのときだった。
廊下の向こうから、かすかな足音が近づいてくる。
一歩、また一歩。静寂をぬうように、その音は確かにこちらへ向かっていた。
エドは息を止めた。アニタの肩もぴくりと震える。
足音は扉の前で止まった。
ほんの一瞬、世界から音が消えたように感じられた。
次いで、鍵穴に金属が触れる小さな音。
がちゃ。
解放の合図だ。
ゆっくりと扉が開く。隙間から冷たい外気が流れ込み、薄闇の向こうにルナの顔が浮かんだ。
「いまだ。」
見ると扉の外は細い廊下だった。
正面は突き当り。その先、右手には別の部屋があるのだろう。今は見張りの交代で人の気配はない。
だが、この空白は長く続かない。戻ってくるまで、そう時間はないはずだ。
エドの視線が素早く廊下を走る。
途中、左手にひとつの窓があった。
窓の外は深い闇に沈んでいる。だが、その向こうに広がるのは、おそらく森だ。
月明かりにかすかに浮かぶ木々の影が、それを物語っていた。
しかも、窓の高さから見て、ここは一階。飛び降りても問題はない。
正面の出入り口を使えば、追手と鉢合わせる可能性が高い。
ならば――。
「こっちだ。」
エドは足音を殺しながら窓へ駆け寄り、そっと窓枠に手をかけた。
だが、窓は思った以上に固かった。
ぎし、と木が軋む音。
建てつけが悪いのか、なかなか開かない。エドは眉をひそめ、音を立てすぎないよう注意しながら、何度も窓を揺する。
やがて、がたん、と小さく音を立てて窓が開いた。人ひとりが通れるだけの隙間ができる。
「急ごう。」
小声でそう告げると、エドはためらいなく窓を乗り越えた。
着地と同時に、正面の木陰へ身を滑り込ませる。
続いてアニタ、そして最後にルナが外へ出る。
森はまだ夜の底にあった。足元はほとんど見えず、木々の影が黒い壁のように立ちはだかる。
それでも三人は、ルナを先頭に駆け出した。
そのとき――。
背後から怒号が夜を切り裂いた。
「くそっ、いねえ!逃げられた!追うぞ!」
想定より早い。
エドの背筋を冷たいものが走った。
心臓が一度、大きく脈打つ。
追手はもう動き出している。
エドは息を呑み、唾を飲み込んだ。
もう、立ち止まることはできない。
三人の運命は、この闇の中で大きく分かれる。
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