60話 ゴブリン5
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最初に動いたのはアニタだった。
広場の片隅、旅人たちから奪われたのだろう荷物が、山のように積み上げられている。
短剣。革鎧。鍋。布袋。壊れた木箱。
その全てを飛び越えるようにして、アニタは駆け出した。
「アニタ!」
エドが呼ぶがアニタは振り返らない。
真っ直ぐだった。
荷物の山へ飛び込み、両手でごそごそとかき分ける。
そして。
「あった!」
弾んだ声が響いた。視界の端に見えた革袋。
先ほどは確認する余裕もなかったが、間違いない。
アニタはそれを抱き上げる。
両腕でしっかりと抱え込み、慌てるように口紐をほどいた。
中を覗き込む。
一瞬、その表情がぱっと明るくなった。
次いで、ほっとしたように肩の力が抜ける。
強張っていた顔が緩む。
ようやく見つけた。失くしたと思っていた大切な荷物。
その事実が伝わってくるような安堵の表情だった。
「......よかった。」
小さな声だった。
だが、その一言には今まで抱えていた不安がすべて詰まっているようだった。
「アニタ、見つかって良かったね。」
エドが声を掛けた。
アニタは革袋を抱えたまま顔を上げる。
「うん。」
短く返事をする。
だが、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
両腕で抱えた革袋を胸元へ引き寄せる。
失くしたと思っていた荷物。
中身を確認した時から、どこか張り詰めていた空気が抜けているのが分かった。
エドは小さく笑う。
ここまで追いかけてきた甲斐はあったらしい。
その時だった。
「二人とも、本当にごめん。」
アイリーンが深く頭を下げた。
思いのほか真剣な声色だった。
エドとアニタは思わず顔を見合わせる。
アイリーンはなおも頭を下げたまま続けた。
「気づいたら身体が動いてて......。」
拳が強く握られている。
悔いているのが見て取れた。
先ほど広場へ飛び出したことを言っているのだろう。
あの瞬間。
誰よりも先に危険へ飛び込んだ。
護衛としては失格だと考えているのかもしれない。
「しょうがないですよ。」
エドは首を振った。
「闇魔法って本当に厄介ですから。」
実際、エド自身も危うく術に飲まれかけた。
あの視界のゆがみを思い出す。
現実と錯覚の境目が曖昧になる感覚。
気づかなければ、そのまま思考ごと持っていかれていたかもしれない。
だが。
アイリーンは首を横へ振った。
「それでもだよ。」
苦い声だった。
「護衛としても、旅の仲間としても良くなかった。」
頭を上げる。
その顔にはいつもの余裕がない。
「油断したつもりはなかったんだけどね......。」
ぽつりと漏れた言葉。
その瞬間。
エドの中に小さな違和感が生まれた。
油断。
本当にそうだろうか。
エドは無意識のうちに眉をひそめる。
闇魔法は精神へ干渉する魔法だ。
感覚を鈍らせる。
認識を誤らせる。
時には幻覚を見せることもある。
一般的には心の隙が大きいほど影響を受けやすいと聞く。
だが。
アイリーンがそんな初歩的な失敗をするだろうか。
エドは先ほどまで通ってきた隠し通路を振り返った。
狭い通路。
低い天井。
見通しの悪い地形。
広場へ出る直前など、最も警戒するべき場所だ。
しかも相手は闇魔法を使う可能性が高い。
そのことは全員が理解していた。
アイリーンも例外ではない。
むしろ彼女は誰よりも警戒していたはずだ。
小盾を構え。
足音を殺し。
一歩ずつ慎重に進んでいた。
そんなベテラン冒険者が。
あの瞬間だけ突然警戒を忘れるだろうか。
エドは視線を動かした。
広場の奥。
壁際に転がるゴブリンシャーマンの死体。
ぼろ布をまとった小さな身体。
潰れた眼窩からは黒ずんだ血が流れている。
もう動くことは無い。
だが。その死体を見つめていると、どこか嫌な感覚が残った。
認識阻害。幻覚。
それだけではない気がする。
まるで、何かに誘導されたかのような。
そんな違和感だった。
エドは黙ったままゴブリンの死体を見つめ続けた。
洞窟の冷たい風が吹き抜ける。
遠くで水滴が落ちる音。
静寂の中で、その違和感だけが妙に大きく残っていた。
エドは黙ったまま考えていた。
先ほどの戦闘を頭の中でなぞる。
ゴブリンシャーマン。
あのぼろ布をまとった個体は、確かに闇魔法を使った。
視界が揺れた。
平衡感覚も乱れた。
だが、それだけだった。
リョーフに教わった通り、気合いを入れ直しただけで振り払えた。
ならば。
エドは眉をひそめる。
あれほどの魔法しか使えない相手が、本当にアニタから荷物を盗めただろうか。
アニタの感知能力は異常だ。
アイリーンもそう評価していた。
魔力を辿り、闇魔法で隠された洞窟を見つけ出すほどの間隔。
そんなアニタの身に着けていた荷物を奪う。
それも、油断して魔力感知をしていなかったとはいえ、気づかれずに。
さらに――。
エドの視線がアイリーンへ向く。
アイリーンはベテラン冒険者だ。
警戒を怠る人物ではない。
その彼女が広場へ飛び出した。
まるで誘導されたように。
確かに闇魔法は厄介だ。
だが。
本当に、あのゴブリンシャーマン程度で可能なのか。
違う。
胸の奥で何かが警鐘を鳴らした。
エドの背筋を冷たいものが走る。
そして――。
「警戒っ!!」
腹の底から叫んだ。
洞窟中へ響くほどの大声だった。
反射的にアニタとアイリーンの身体が跳ねる。
だが二人とも訓練されている。
理由を問わない。まず動く。
アイリーンは即座に短剣を抜き、小盾を構えた。
アニタも荷物から手を離す。
「アニタ!索敵!」
「今探してる!」
即答だった。
アニタは目を閉じる。
呼吸を整える。
意識を広げる。
壁。天井。足元。
魔力の流れを探る。だが、見つからない。
眉が寄る。
何かがおかしい。
いる。そんな気がする。なのに捉えられない。
まるで霧を掴もうとしているようだった。
数秒にも満たない時間。
しかし永遠のように長く感じる。
その時だった。
アニタの目が見開かれる。
「そこ!!」
叫びながら指を突きつける。
方向は――。
アイリーンが倒したゴブリンの死体の向こう。
ただの岩壁。
そう見える場所だった。
同時に。
アニタの指先から光が走る。
バリッ!!
空気を裂く音。
青白い雷撃が一直線に飛ぶ。
岩壁へ向かって伸びた雷撃は――。
途中で何かにぶつかった。
閃光が弾ける。
次の瞬間。
「うおおっ!」
男の声。
「いてぇっ!?」
聞き覚えのない叫びが洞窟へ響き渡った。
その場所の空間がぐにゃりと歪む。
何もなかったはずの場所。
そこに。
人影が現れ始めていた。
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