5話 岐路
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古小屋を出ると、日は高く上がりきっていた。
木々の葉を透かした陽光が森の地面にまだら模様を描き、
鳥たちのさえずりも朝よりいっそうにぎやかに響いている。
魔法が使えない。その事実は重く、胸の奥に沈んだままだ。
それでも、ないものを嘆いていても仕方がない。
今できることを、できる限りやるしかないのだ。積み木を下から積むように。
そう決めると、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
村へと続く道を歩きながら、エドは大きく息を吸い込んだ。
土と草の匂いが鼻をくすぐる。
だが、村が近づくにつれ、その穏やかな気分に小さな引っ掛かりが生まれた。
人の声が、やけに多い。
いつもならそれぞれが畑や家で仕事をしている時間だ。こんなふうに人の声が一か所に集まることは少ない。
耳を澄ますと、ざわめきの中に焦りと苛立ちが混じっているのが分かる。
エドは少しだけ足を速めた。
どうやら、人だかりは村の中央ではない。
木工職人ズーギの家の前に集まっているようだった。
近づくと、ざわめきの中にひときわ大きな怒鳴り声が混じっていた。
「放っとけ!あいつは昔っから腹が減りゃ帰ってくる!」
聞き覚えのある、太くよく通る声だ。
木工職人のズーギ。
大柄で声も態度も大きいが、腕は確かで、村の家具や農具の多くは彼の手によるものだ。
短気で頑固。エドの父ヴァンスとも気が合う。
息子のゲヤーキとは、エドもよく一緒に遊んだものだ。
「そうは言ってもなぁ……」
「もう、だいぶ経つぞ」
「しかも、街道の方へ走っていったって話だ」
「でも何も持ってなかったぞ」
誰かの一言に、エドは眉をひそめた。
この村から最寄りの町までは、大人の足でも数日はかかる。
途中には森もあれば、野獣も出る。凶暴な魔物も出るかもしれない。
旅慣れた大人ですら準備なしに歩く道ではない。
ズーギを見ると、腕を組み、いかにも平然としているふうを装っている。
だが、その足先は落ち着きなく地面をたたいていた。
本心では、誰よりも心配しているのだろう。
そのとき、人垣の後ろから聞き慣れた声がした。
「エド。」
振り向くと、母のリラがいた。少し息を弾ませている。
「ゲヤーキが、お父さんと大喧嘩して飛び出していったの。街道のほうへ走っていくのを見たわ。」
エドは街道の方角へ目を向けた。
「どれくらい前?」
「そんなに立っていないと思う。半刻......いえ、もう少し前かしら」
半刻でも走り続けていればかなり先まで行っているはずだ。
しかも、何も持たずに。
エドはズーギを見た。相変わらず腕を組み、険しい顔をしている。
「ズーギさん、何があったの?」
エドが訪ねると、ズーギは不機嫌そうに答えた。
「何がも何もねえ。あいつが雑な仕事をしやがったから怒鳴り飛ばしただけだ。」
「だけっ、て......。」
近くにいた村人が苦笑する。
「あんな大きな声で叱ることあるかよ」
「家が揺れるかと思ったぞ」
その言葉に周囲から小さな笑いが漏れた。ズーギはますます顔をしかめる。
「うるせえ。雑な仕事を見逃したら職人にはなれねえ。」
「でも、ゲヤーキには少しきつかったみたいね」
リラはそう言って、街道のほうへ目をやった。その表情には、母親らしい心配がにじんでいる。
エドもまた、同じ方角を見た。
思いつめた顔で村を飛び出していくゲヤーキの姿が、ありありと目に浮かぶ。
エドは小さく息をつき、決心を固めた。
「お母さん。僕、ゲヤーキを追いかけてくるよ。」
リラは一瞬驚いたように目を輝かせ、それからやわらかく頷いた。
「ええ、お願いね。」
その声には、安堵がにじんでいた。
エドはうなずき返し、ズーギへ向き直った。
「いらん。放っとけ。そのうち腹が減りゃ帰ってくる。」
ぶっきらぼうな言い方だったが、強がりなのは見え見えだった。
「そうだね。きっと帰ってくると思う。」
落ち着いたその返事に、ズーギの眉がわずかに動く。
「でも、今のゲヤーキは、帰る理由より帰りたくない理由を探している気がするんだ。」
エドは街道のほうへ目を向け、穏やかな声色で続けた。
「人って、一度意地になってしまうと、自分から引き返すのは難しいから。ゲヤーキさんにもそんな経験がないかな?」
エドはズーギをまっすぐ見上げた。
「そんなとき、少し離れたところから声をかけてくれる人がいると、戻りやすいと思う。」
ズーギは腕を組んだまま黙りこんだ。
「連れ戻すんじゃないよ。ただ、帰る道もあるって伝えてくるだけ。」
しばらくの沈黙。
ズーギは眉間に深いしわを寄せ、ぎゅっと目を閉じた。そして、小さく。
しかしはっきりと息を吐く。
「......好きにしろ」
ぶっきらぼうな一言だったが、それ以上止めるつもりはないらしい。
「うん。行ってくる。」
エドはそう答えると、くるりと踵を返した。
――母の視線が、ちくりと背中を刺した気がした。
村はずれへ続く道へ駆け出す。
ゲヤーキの背中は、まだそう遠くへはいっていないはずだ。
村を離れると、にぎやかな声はすぐに遠ざかり、代わりに風が草を揺らす音だけが耳に届いた。
街道はゆるやかに森の縁をなぞるように続いている。
しばらく走ると、その先に一人の背中が見えた。
少し伸び始めた茶色の髪は歩くたびに揺れている。
ズーギ譲りのがっしりした肩が、今はどこか小さく見えた。
頭を垂れ、道端の石をつま先でけりながら、とぼとぼと歩いている。
怒りに任せて飛び出した時の勢いは、もう残っていないらしい。
背負い袋もなく、手ぶらのまま。
思い付きで村を飛び出してきたことは明らかだった。
ゲヤーキだった。
エドは少し歩調を緩めた。
いきなり呼び止めれば、また意地を張って逃げ出すかもしれない。
なら、追いつくより並ぶほうがいい。
足音をわずかに大きくして存在を知らせると、エドは何も言わずにゲヤーキの隣に並んだ。
それでも、すぐには声をかけない。
しばらく二人は、ただ黙って街道を歩いた。
砂利を踏む音が静かな街道に規則正しく響く。
道の両脇では、風に揺れた草がさわさわとこすれ合い、
森の方からはケラスの鳴き声が時折聞こえてくる。
しばらく歩くうちに、頬を撫でる風が少しだけひんやりと感じられた。
その風に、ゲヤーキの少し伸びた髪が揺れる。
やがて、ゲヤーキは前を向いたままぽつりと口を開いた。
「......親父さ」
道端の小石を蹴る。
「俺が作った椅子、見てさ。脚が少しずれてるって。」
また一つ、小石を転がす。
「こんなもんを売り物にする気か、って。」
その声には、怒りよりも悔しさの方が強くにじんでいた。
「わかってるよ。ずれてたのは本当だし――」
「でも、あんな怒鳴らなくても――」
声が少し、震えていた。
エドはすぐには答えなかった。
ただ、足を止めることなく、ゲヤーキと同じ速さで歩き続けた。
「――悔しかったんだね。」
ようやく口にしたのは、たったそれだけだった。
それでも、ゲヤーキの足を止めるには十分だった。
ゲヤーキは立ち止まったまま、しばらくうつむいていた。
握りしめたこぶしに、じわりと力がこもる。
そして微かに震える声で、言葉をひねりだした。
「......頑張ったんだ。」
道端の小石をつま先で強く蹴る。
「少しくらいは!ここは良くできた、とか......」
語気を荒げたものの、すぐにその声は弱弱しくしぼんでいった。
その悔しさは、どこかエド自身の胸の痛みにも似ていた。
エドは静かに口を開いた。
「ズーギさんは、ゲヤーキに気づいてほしかったんだと思う。」
ゲヤーキが顔を上げる。
「ゲヤーキなら、もっと良くできるって信じていたから、思わず声が大きくなったんだよ。」
エドはやわらかく微笑んだ。
「その声の大きさは、きっと、期待の大きさだよ。」
ゲヤーキの目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
こぶしはさらに強く握られ、鼻をすする音が静かな街道に響く。
「......うん。」
小さく、けれど確かにうなずく。
エドは街道の先ではなく、村の方へ目を向けた。
「積み上げてきたものが崩れないうちに、そろそろ帰ろうか。」
ゲヤーキは涙をぬぐい、赤くなった目で小さく頷いた。
陽が、二人の影を長く街道に伸ばしている。
さっきまで背を向けていた村は、降りければすぐそこにあるようだった。
風が吹き抜け、草の穂がさらさらと揺れる。
二人は並んで歩きだす。
砂利を踏む音が、静かな道に再び規則正しく響いた。
行きとは違う。一人で遠ざかる足音ではなく、二人で帰る足音だった。
村へ続く道は、夕暮れの光の中で、柔らかく二人を迎えていた。
「エド、おまえ――ちょっと会わないうちに、ずいぶん大人になったんだな。」
ゲヤーキは、少し照れくさそうに笑った。
エドはその言葉に、ただ微笑みを返した。
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