56話 ゴブリン
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「アニタ。」
エドが短く声を掛けた。
視線は洞窟から現れたゴブリンたちへ向けたまま。
「もう済んでる。」
返答は即座だった。
アニタもまた声を潜めている。
気配遮断。
闇魔法によって自分たちの存在感を薄める技術だ。
完全に姿を消せるわけではない。
だが、意識して探さなければ気づけない程度には存在を希薄化できる。
あの洞窟の入口と同じ魔法だ。
少なくとも、あのゴブリンたちはまだこちらに気づいていない。
三体のゴブリンは洞窟の前へ出ると、辺りを見回した。
黄色く濁った瞳が森を舐めるように動く。
しかし、その視線がこちらを捉えることはない。
「......。」
アイリーンが静かに弓を構えた。
動作に無駄は一切なく、腰から矢を抜く。
番える。引く。
その全てが流れるように繋がる。
弦が鳴った。
一射。二射。
矢は真っ直ぐ飛び、先頭のゴブリンの眼窩を貫いた。
ゴブリンの頭が大きく跳ねる。
声を上げる間もなく、その身体は地面へ崩れ落ちた。
続けて二射目も外れない。
矢は二体目のこめかみへ突き刺さり、そのまま後頭部まで貫通する。
緑色の身体が糸の切れた人形のように倒れた。
三射目。
アイリーンは素早く三本目の矢を番え引き絞る。
次の瞬間。
エドが横から軽く腕へ触れた。
「えっ。」
わずかな力だった。
だが放たれる寸前の弓には十分だった。
弦が鳴る。矢は飛ぶ。しかし狙いはわずかに逸れた。
本来なら頭を貫いていたはずの一矢が、ゴブリンの腹へ深々と突き刺さる。
一瞬の沈黙。
そして――。
「グギュゴアアアアアアアッ!」
耳障りな絶叫が森へ響き渡った。
ゴブリンは腹を押さえながらのたうち回る。
苦痛に歪んだ顔から泡交じりの唾液が飛び散った。
その叫びは森中へ広がっていく。
アイリーンが振り向いた。
驚きと抗議が入り混じった表情。
なぜ止めたのか。
その問いが口から出るより早く、
「しっ。」
エドは唇へ人差し指を当てた。
声を出すな。
その仕草だけで十分だった。
アイリーンは口を閉じる。
「すぐ分かります。」
エドは淡々と言った。
視線は洞窟から外さない。
「次の矢を準備してください。」
アイリーンの眉がわずかに動く。
そして何かを察したのだろう。
すぐに頷いた。
「......なるほどね。」
呟きながら身を低くする。
再び矢を番えた。
三人は草むらへ身を沈める。
誰も口を開かない。
聞こえるのは、腹を射抜かれたゴブリンの断続的な悲鳴だけだった。
「ギィ......ッ......!グギャッ......!」
苦しげな呻きが洞窟の入口へ吸い込まれていく。
その音が消えるのを待つように、三人は息を潜めた。
そして――。
「......来る。」
アニタの肩がぴくりと震えた。
魔力の動きを捉えたのだ。
洞窟の奥。暗闇の向こう。動く気配がある。
「子供にしてはえぐいこと考えるね......。」
アイリーンが小さく呟く。
だが、その口元にはわずかな笑みすら浮かんでいた。
番え、引き、放つ。
矢は音もなく飛び、悲鳴を上げ続けていたゴブリンの眼窩を正確に射抜いた。
叫び声は途中で途切れる。緑色の身体が地面へ崩れ落ちた。
しかし、それで終わりではなかった。
洞窟の奥から次々とゴブリンが飛び出してくる。
一体、二体、三体。
まだ続く。
アイリーンの矢が次々と命を奪っていくが、数が多い。
矢が次の獲物へ向かうより早く、何体かはこちらへ気づいた。
「ギャギャッ!」
叫びながら駆け出してくる。
その瞬間。
ゴブリンの足元の地面が崩れた。
「ギッ!?」
アニタの土魔法だ。
踏み出した足が空を切り、ゴブリンの身体が大きく傾く。
そこへエドが踏み込んだ。
握るのはゲヤーキから譲り受けた棒。
先端を捻ると穂先が飛び出した。
倒れかけたゴブリンの横をすり抜けるように穂先が走る。
ぶつり。
鈍い感触。
眼窩へ突き込まれた穂先が脳を貫いた。
ゴブリンは痙攣し、そのまま動かなくなる。
十数体ほどだろうか。
最後の一体が地面へ崩れ落ちてからもしばらく誰も動かなかった。
森に静寂が戻る。
風が枝葉を揺らす音だけが耳に届く。
アイリーンは弓を構えたまま周囲を警戒していた。
アニタも洞窟の奥へ意識を向け続けている。
エドは倒れたゴブリンの死体へ近づいた。
一体ずつ確認する。
胸が上下していないか。指先が動いていないか。
目だけでなく、棒の先で軽く突きながら確かめる。
全て動かない。
そこでようやく肩の力を少し抜いた。
「まったく。」
背後から呆れたような声が聞こえた。
「君たちが連携すると恐ろしいね。」
振り返ると、アイリーンが苦笑していた。
エドは小さく肩を竦める。
「褒め言葉として受け取っておきます。」
「だから褒めてないって。」
そう言いながらも、どこか感心したような顔だった。
エドは再び死体へ視線を落とす。
ゴブリンたちの装備はまちまちだった。
旅人から奪ったのだろう。
錆びた短剣。使い古された革帽子。片方だけの革靴。
肩から提げた布製の小袋。
どれも持ち主がいたはずの物だ。
だが――。
「ないな。」
エドは呟いた。
探している荷物は見当たらない。
どのゴブリンもアニタの革袋を持っていなかった。
「アニタ。」
呼びかけるとアニタがすぐ顔を向ける。
「これで全部?」
アニタは目を閉じた。
洞窟の奥へ意識を向けるように。
数秒後、ゆっくり首を振る。
「ううん。」
そして洞窟を指差した。
「まだいる。」
その声は確信に満ちていた。
「でも、正確な数までは分からない。」
三人はそろって洞窟の奥を見る。
内部は思ったより広い。
入口から先はまっすぐ伸びているようだったが、その先は暗闇に呑まれていた。
ただ、完全な闇ではない。
岩壁のあちこちに生えた苔が淡く発光している。
青白い光が洞窟内をぼんやり照らし、不気味な陰影を作り出していた。
「闇魔法を使ってるって聞いたときは盗賊かと思ったんだけどねぇ。」
アイリーンが頭を掻く。
「まさかゴブリンとは。」
そう言いながら洞窟を睨む。
「魔法を使う個体はゴブリンメイジって呼ばれることが多い。」
ベテラン冒険者らしく、自然と説明が続く。
「でも闇魔法が得意なのはゴブリンシャーマンだね。」
表情が少しだけ険しくなった。
「正直、いると分かった時点で帰る判断をしてもおかしくない相手だよ。」
闇魔法。
認識を狂わせる厄介な魔法。
実際、アニタがいなければこの洞窟すら見つけられなかった。
アイリーンの視線がアニタへ向く。
「私、もう絶対油断しません。」
アニタは真剣な顔で言った。
荷物を奪われたことを、まだ強く悔いているのだろう。
アイリーンは苦笑した。
「いや、そこは気にしなくていい。」
そして首を横へ振る。
「普通はできないから。」
「え?」
「ここまで離れた相手を魔力だけで追跡することも。」
洞窟の入口へ視線を向ける。
「闇魔法で隠された入口を見つけることも。」
一拍置いた。
「アニタちゃんの感知能力は異常だよ。」
アニタが少しだけ目を丸くする。
それでも、どこか嬉しそうだった。
短い沈黙。
洞窟の奥から冷たい空気が流れてくる。
エドはその暗闇を見つめた。
荷物はまだ中にある。
そして、おそらくゴブリンシャーマンも。
「行こう。」
静かにそう言った。
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