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チートが無いなら無いなりに  作者: 古賀仁成
2章 12歳少年エド。アニタの試験付き添い。

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52話 ヴェン

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穏やかな風が吹いていた。

ビーワ湖から流れてくる風はどこか湿り気を含み、頬を撫でるたびに心地よい冷たさを残していく。

街道の先には北ビーワの街並みが見えていた。


まだ少し距離はある。

それでも先ほど丘の上から見た時よりずっと近い。


赤茶色の屋根が並び、白い壁が陽光を受けて明るく輝いている。

街の周囲には人の姿も多い。


荷馬車を引く商人。

徒歩で旅をする者。

荷を背負った行商人。

鎧姿の冒険者らしき集団。


行き交う人々の声はまだ聞こえない。

だが、その賑わいだけは遠目にも伝わってきた。


街へ近づくにつれ、人の営みの気配が濃くなっていく。

アニタはきょろきょろと周囲を見回していた。

見るものすべてが珍しいのだろう。


「あっ、見てエド。あの荷馬車すごく大きい。」

「あっちの商隊の方が大きいよ。」

そんな会話を交わしながら歩いていた時だった。


不意に、アイリーンの足が止まった。

さくり、と地面を踏む音が途切れる。

エドも反射的に足を止めた。


数歩先を歩いていたアイリーンは、街の方ではなく街道脇の草原へ顔を向けている。


風が吹く。

背丈ほどもある草がざわりと波打った。


その視線は鋭い。

先ほどまでアニタと笑いながら話していた人物と同じとは思えなかった。


「嫌なにおいがする。」

低い声だった。

エドは思わず周囲の空気を吸い込む。


湿った土の匂い。

草の青い香り。

遠くの焚き火の煙。


だが、それ以外は分からない。


「どうしたんですか?」

問いかけると、アイリーンは目を細めたまま答えた。


「死臭と獣臭だね。」


その言葉に空気が変わる。

先ほどまで感じていた旅の高揚感が、一瞬で遠のいた。


「もしかしたら魔獣が死肉を漁ってるかもしれない。」

アイリーンは背負っていた弓へ手を伸ばす。


革の擦れる音。

静かな動作だった。

迷いは一切ない。


「気を付けて。」

短く告げると、彼女は腰を落とした。


まるで獲物を狙う猫科の獣のようだった。

背丈ほどある草の中へ身を滑り込ませる。


足音はほとんど聞こえない。

草だけがかすかに揺れた。

エドは無意識に唾を飲み込んだ。


アニタを見る。


アニタはすでに表情を引き締めていた。

眉を寄せ、草むらの奥を見つめている。

何かを感じているのだろうか。


身体は半歩だけ開き、いつでも動ける姿勢になっていた。

エドも棒を握り直す。


ゲヤーキから譲り受けた長い棒。

手に馴染んできたそれを構える。


風が吹いた。

草が揺れる。

遠くで鳥が鳴く。


静かだった。

あまりにも静かだった。


そして――


ビィンッ。


張り詰めた弦が震える。

甲高い音が草原に響いた。

続いて風を裂く鋭い音。


ヒュッ。

一瞬の後。


トン。

何かへ深く突き刺さる音が聞こえた。


さらに、

ドサッ。


重いものが地面へ倒れる鈍い音。


揺れていた草が止まる。

再び静寂が訪れた。


すると、アニタが突然草むらへ駆け出した。

「アニタ!」


エドも反射的に後を追う。

踏み込むたびに葉が擦れ合い、ざわざわと音を立てた。


アニタは迷わず進んでいく。

その背中を追いかけながら、エドは違和感を覚えた。


何かがおかしい。

風の匂いが変わっていた。

湖から吹いていた爽やかな風とは違う。


生暖かく、重たい匂い。

湿った土の匂いに混じって、鼻の奥へまとわりつくような臭気が漂っている。


そして――


「来ちゃだめだ!」

草むらの奥からアイリーンの鋭い声が飛んだ。

怒鳴るような声だった。


普段の穏やかな彼女からは想像もできないほど強い声音。


エドの足が止まる。

アニタも立ち止まった。

だが、遅かった。


視界を遮っていた草が風に揺れる。

その隙間から、地面に横たわる灰色の毛皮が見えた。


魔獣だった。

全身を覆う灰色の毛並みは逆立ち、額から背にかけて黒いとげが連なっている。

四肢は異様に長く、血のように赤い眼球には光が宿っていなかった。

その頭部には一本の矢が深々と突き刺さっていた。


だが、エドとアニタの視線はそこには留まらなかった。


その奥。


魔獣の向こう側に。

人の足が見えた。


泥に汚れた革靴。

引き裂かれたズボン。

不自然な方向へ曲がった膝。


視線が勝手に上へ向かう。


そして。

エドは息を呑んだ。


男だった。旅人だろうか。

服装からして商人かもしれない。

だが、もはや判別は難しかった。


腹部が大きく裂けている。

服は血で黒く染まり、その下から覗く肉は無残に噛み千切られていた。


肋骨の白さが見えてしまっている。

乾き始めた血が周囲の草を赤黒く染めていた。


鼻を刺す腐臭。

鉄のような血の匂い。

胃の奥がひっくり返りそうになる。


「ひっ......。」

隣でアニタが小さく息を呑む。


その声は悲鳴にもならなかった。

エドも視線を逸らした。

見てはいけないと思った。


だが、一度見てしまった光景は簡単には消えてくれない。

脳裏に焼き付いて離れなかった。


風が吹く。

草が揺れる。

その音だけが妙に大きく聞こえた。


「遅かったか。」

アイリーンが小さく息を吐く。


弓を下ろしながら、困ったように頭を掻いた。

「だめじゃないか。護衛対象なんだから待ってなきゃ。」


それから二人を見る。

叱るというより、心配している顔だった。


「いや......。先に来るなって言わなかった私も悪かったか。」

「これは......。」


エドが死体を見つめながら呟く。

アイリーンが頷いた。


「多分、ゴブリンの仕業だね。」

そう言って死体の後頭部を指差す。


「まともにスリングを食らったんだと思う。倒れたところを止め刺されたんだろうね。」

それから近くに転がる灰色の魔獣へ目を向けた。


「このバイエナはただの死肉漁りだよ。」

バイエナ。


どうやらこの灰色の魔獣の名前らしい。

エドは改めて死体へ視線を向けた。


男の腰には本来あるはずの荷袋が見当たらない。

旅人なら持っていて当然の荷物もない。

さらに首には深い切り傷が残されていた。


「ゴブリンって、人間の荷物を奪うんですね......。」

思わずつぶやく。


「それに後頭部への一撃。倒れた後に首を切られている。」

エドは眉をひそめた。


「投石だけじゃなく武器も使う。思ったよりずっと知能が高いんですね。」

「君、かなり鋭いね。」


アイリーンが感心したように言った。

「その通りだよ。」


「この人、どうするんですか?」

アニタがエドの袖を掴みながら尋ねた。


「この場で焼く。」

アイリーンは短く答えた。


「それから北ビーワのギルドに報告かな。」

そう言いながら、死体の首元へしゃがみ込む。


首から提げられていた金属製の札を外した。

「ヴェン......か。」


小さく呟く。

名前が刻まれていたのだろう。

アイリーンはそれを丁寧に腰の袋へしまった。


それから死体へ向き直る。

静かに手をかざし、目を閉じる。


次の瞬間。

死体の周囲に火が走った。


赤い炎が衣服を包み込み、やがて全身を覆う。

乾いた草がぱちぱちと音を立てる。


焦げる匂い。

焼けた肉の匂い。


風に乗って流れてくるその臭気に、アニタが顔をしかめた。

エドも無意識に息を止める。


炎は静かに燃え続ける。

そこにいた男が誰だったのか。


どこから来て、どこへ向かおうとしていたのか。

もう知ることはできない。


エドはそっと目を閉じた。

胸の前で両掌を合わせる。


言葉にはしない。


ただ、男の旅路が安らかなものであるように。

そう静かに祈った。


ビーワ湖の穏やかな風は変わらず吹いている。

だがエドには、その風が先ほどまでより少し冷たく感じられた。

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