43話 出発
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朝日がゆっくりと村を照らし始めていた。
東の空は淡い橙色に染まり、夜の名残を残していた藍色を少しずつ押し上げていく。
冷えた空気の中、草葉の先には朝露が光り、畑を囲う低い柵には薄く白い靄が絡みついていた。
まだ完全には目覚め切っていない村の上を、煙突から立ち上る細い煙が漂っていく。
どこかで鳥が鳴いた。
続いて、家の扉が開く音。
井戸の桶が軋む音。
薪を割る乾いた響き。
朝食の支度だろう、焼けたパンの香りや煮込みの匂いが、冷たい空気に混じって流れてくる。
村が起き始める音だった。
その穏やかな朝の景色とは対照的に、村の入り口にはいつもより多くの人影が集まっていた。
荷台付きの馬車が一台。
車輪には昨夜のうちに油が差されたのか、木材特有の軋みはほとんど聞こえない。
荷台には麻袋や木箱、水樽が丁寧に括り付けられ、その横には毛布や予備の縄まで整然と積まれていた。
ウーマは一頭。
鼻先から白い息を吐きながら、時折地面を蹄で鳴らしている。
革の手綱や金具は朝日を受けて鈍く光り、旅支度がすでに万全であることを物語っていた。
御者台には、ガイウスが座っていた。
四十を過ぎた大柄な男で、日に焼けた肌には深い皺が刻まれている。
分厚い外套の上からでもわかるほど肩幅が広く、無骨な手は長年手綱を握り続けてきた者のものだった。
口数は多くない。
だが、荷の固定具合を何度も確かめる視線や、ウーマの様子へ向ける細かな気配りには彼の性格がよく表れていた。
その馬車の脇には、もう一人。
折り畳みのロングボウを背負った女が立っている。
名はアイリーン。
三十代後半ほど。
茶色の髪を後ろでひとまとめにし、動きやすさを重視した皮鎧の上から濃い緑の外套を羽織っている。
腰には短剣。背には使い込まれた折り畳みのロングボウ。
矢筒の縁は擦り切れており、それだけで長い実戦経験を感じさせた。
冒険者特有の鋭さを纏ってはいるが、その目つきは必要以上に険しくない。
周囲へ自然と注意を向けながらも、村人たちへ軽く挨拶を返す姿には、旅慣れした余裕があった。
そして、その少し離れた場所に、エドとアニタも立っていた。
二人とも旅用の荷物を背負っている。
エドの背嚢には、水筒や保存食、簡易工具が括りつけられていた。
決して大きな荷物ではない。
だが、自分で背負い、自分で運ぶために選び抜いた最低限が詰め込まれている。
対するアニタの荷物はやや小さい。
その代わり、胸元には大切そうに革袋が抱えられていた。
学校の受験書類や、王都で寮暮らしをしている姉への手土産が入っているらしい。
吐く息は白い。まだ春の入り口。
朝の冷気は肌に鋭く、指先がじわりと冷える。
それでも、アニタの表情には寒さ以上の緊張が浮かんでいた。
視線は何度も村の外へ向かう街道へ向けられる。
王都バンダルワン。
中央ラッシア大陸最大国家、ウルネ王国の首都。
期待。不安。興奮。緊張。
初めての長旅に様々な感情が入り混じったその横顔を見ながら、エドは静かに空を見上げた。
澄み切った青空だった。
長い旅になる。
この小さな村を出て、王都へ向かう。
それはただの移動ではない。
自分たちの人生が、大きく動き始める旅でもあった。
「気を付けて行ってくるのよ。アニタちゃんをしっかり守りなさいね。」
リラはそう言って、エドの手を両手で包み込むように握った。
朝の冷気に晒されていたはずなのに、その手は不思議と温かい。
細い指先には、長年家事を続けてきた小さな硬さがあった。
エドはその手を握り返し、小さく頷く。
「うん。」
と、短い返事。
けれど、その声音にはいつもより少し強い力がこもっていた。
リラはわずかに目を細めると、そのままアイリーンの方へ向き直った。
「道中、よろしくお願いします。」
深く頭を下げる。
息子を預ける親としての、真っ直ぐな礼だった。
アイリーンは慌てる様子もなく、柔らかく笑う。
「お任せください。何度も通った道ですので、心配はいりませんよ。」
落ち着いた声だった。
無理に安心させようとする響きではない。
経験を積み重ねてきた者だけが持つ、自然な確信がそこにはあった。
その言葉に、周囲の空気がほんの少しだけ和らぐ。
一方で、アニタの母親は娘の顔をじっと見つめていた。
何かを言おうとして、飲み込む。
また口を開きかけて、結局閉じる。
そんな迷いを何度も繰り返した後、ようやく絞り出すように言った。
「危ないことはしないようにね。アイリーンさんとガイウスさんの言うことを、ちゃんと聞くのよ。」
その声には、不安が滲んでいた。
王都。
それはこの小さな村から見れば、あまりにも遠い世界だ。
街道沿いを行けば着くとは言え、途中には森もある。
魔物も出る。盗賊だっているかもしれない。
娘が自分の手の届かない場所へ向かう。
その事実だけで、胸が締め付けられるのだろう。
アニタはそんな母を安心させるように、小さく笑った。
「大丈夫。ちゃんと気を付ける。」
だが、その笑顔の奥に、彼女自身の緊張もまた隠しきれてはいなかった。
すると、村長がゆっくりと前へ出る。
大きな手が、ぽん、とアニタの頭に置かれた。
「しっかりやるんだぞ。」
短い言葉。
けれど、その声には重みがあった。
幼い頃から成長を見守ってきた子供を送り出す。
そんな父親の想いが、その一言に込められていた。
「うん。」
アニタは少しだけ目を潤ませながら、力強く頷く。
村人たちも口々に声を掛ける。
「身体に気をつけろよ!」
「試験頑張るんだぞー!」
「土産話、期待してるぞ!」
笑顔で送り出そうとしている者。
不安を隠しきれない者。
誇らしげに見つめる者。
様々な表情が、朝靄の中に並んでいた。
そんな別れの空気の中、ガイウスが馬車の手綱を軽く鳴らす。
「そろそろ出るぞ。」
低い声が響いた、その時だった。
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