31話 修行
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翌日。
朝の森は、まだ薄く靄が残っていた。
枝葉の隙間から差し込む光はやわらかいのに、エドの足取りは妙に重い。
昨夜はよく眠れたはずだった。身体も休んだはずだ。
それなのに、足が進むほど気分は沈んでいく。
隣を歩くアニタは珍しく静かだった。
いつものように先に行くこともなく、同じ歩幅でついてきている。
今日からリョーフの修行が始まる。
昨日の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
――圧倒的な暴力の前では、大体の問題は解決する。
その言葉を口にした男が、自分たちに何をさせるのか。
考えるまでもなく、ろくなものではない気がした。
木々の隙間から小屋の屋根が見えた瞬間、エドは無意識に歩幅を落としていた。
次の瞬間、後ろから不意に声が聞こえた。
「おはよう。よく来たね。」
反射的に振り返る。そこにはリョーフがいた。
思わず肩が跳ねる。心臓が一拍遅れて強く脈打った。
気配なかった。
足音も、枝を踏む音も。
昨日のことが一瞬で蘇る。
真後ろから聞こえた声。
見抜けなかった幻影。
何もできないまま崩された感覚。
「さて、今日からやっていこうか。」
リョーフは軽く手を打つ。
「リョーフさん、お願いします。」
「......お願いします。」
隣でアニタが頭を下げる。半拍遅れてエドも同様に頭を下げる。
アニタがそのまま顔を上げて尋ねた。
「どんなことをやるんですか?」
リョーフは二人を見比べて口を開いた。
「まずは君たちには、肉体づくりから始めてもらう。」
その一言に、エドはやっぱりか。と内心でつぶやく。
リョーフは一本指を立てる。
「十一歳の身体というのはね、まだ伸びしろしかない。今のうちに、自分が思った通りに動かせる身体を作るんだ。」
続けて、二本目の指を立てた。
「そして、そのためには想像力もいる。自分がどう動きたいか、何ができる身体になりたいか。そういう像を持たなければ鍛え方も曖昧になる。」
そして、三本目の指を立てる。
「その想像力には知識が必要だ。身体のこと、戦いのこと。人のこと。知らなければ想像の限界も低い。」
そこで、わずかに笑う。
不敵というより、面白がるような笑みだった。
「だから、身体を全力で動かしながら、私の話も聞いてもらう。」
一拍置いて、さらりと言う。
「つまり、身体を潰しながらの座学だね。」
エドは顔をしかめた。
「潰すっていいました!?」
「いや、作るって言ったんだよ。時間はたっぷりあるようで有限なんだ。なら同時にやるのが合理的だろう?」
理屈としては正しいのかもしれないが、エドには嫌な予感しかしなかった。
「では、ついてきなさい。」
そう言って歩き出したリョーフの背を追い、エド達は小屋の裏手へ回った。
細い獣道をしばらく進むと、木々の隙間が開けた。
朝の光を受けて、水面がきらりと揺れる。
浅い川だった。
山から流れてきた水なのだろう。
底まで見えるほど澄んでいて、そのかわり見ているだけで冷たさが伝わってくる。
流れは緩やかだが、絶えず石にぶつかって小さな音を立てていた。
さらさら、というには少し重い。
岩に押し返される水の音が耳に残る。
深さはエドたちの腰ほど。
川底には丸い石が敷き詰められ、ところどころ大きな岩が水面から頭を出している。
リョーフは何も言わず岸辺へしゃがみ込むと、積み上げられていた石の山に手をかけた。
ひとつ、持ち上げる。
エドは思わず目を瞬かせた。
石というより、もはや岩だった。
両腕で抱え込まなければ支えられないほど大きく、濡れた表面には苔が薄く張り付いている。
ずしり、と音まで聞こえそうな重さだった。
それを平然と片腕で抱え直すと、リョーフはそのままエドの前に差し出した。
「持ってみなさい。」
言われるまま受け取った瞬間、エドの腕が沈んだ。
重い。
抱えた腕から肩へ、肩から腰へと一気に重さが落ちてくる。
膝がわずかに曲がり、踏みしめた地面に靴底がわずかに沈んだ。
思わず腕に力を込める。
それでも、石は腕の中でずるりと滑りそうになる。
隣ではアニタも同じように石を受け取り、顔をしかめていた。
だが落とすまいと歯を食いしばり、そのまま抱え直している。
リョーフは川の上流側を指差した。
指の先には、大きく斜めに傾いた一本の木があった。
幹は途中から川へせり出し、枝葉が水面を覆っている。
目立つ木だ。だが、近くはない。
歩くだけでも数分はかかる。
「これを抱えてあそこまで往復するんだ。」
その言葉はあまりにも軽かった。
戸惑いながらも、エドたちは岩を抱えたまま歩き出す。
川沿いの砂利道は足元が不安定で、それだけでも歩きにくい。
抱えた岩の重みで腕がじわじわとしびれはじめ、数歩進んだだけで肩が張ってきた。
それでも、これなら何とかなるかもしれない。
そう思いかけたところで、背後から声が飛んだ。
「ちょっとちょっと、何をしているのさ。」
思わず足が止まる。
振り返ると、リョーフが呆れたように眉を上げていた。
「え?」
隣でアニタが首を傾げる。
リョーフが当然のように川を指差した。
「こっちだよ。こっちを歩くんだ。」
エドの視線がゆっくり川へ落ちる。
透き通った水面。
流れの下で揺れる石。
朝の光を受けてきらつく水。
さっきまで景色だったものが、一瞬で障害物に変わった。
「......中を?」
思わず漏れた声に、リョーフはきょとんとした顔をする。
「当たり前だろう?わざわざ水辺まで来たんだから。」
その言い方があまりに当然すぎて、エドは何も返せなかった。
しぶしぶ抱えていた岩を足元に置く。
ずしりと地面に沈む音がして、腕が軽くなる。
その一瞬の解放感に思わず息を吐きながら、エドは上着に手をかけた。――その時。
「何をしているのさ。」
ぴたりと動きが止まる。
リョーフが腕を組んでこちらを見ていた。
「服を脱ごうかと......」
言い終える前に、リョーフは小さく首を振った。
「すぐに楽をしようとするんじゃないよ。」
その声音は穏やかなままだったが、否定の余地はなかった。
「もちろん服は全部着たままだ。靴もそのまま。」
エドとアニタは目を瞬かせる。
リョーフは川を見ながら続けた。
「濡れた服を着て動くことにも、重くなった靴で歩くことにも慣れておいた方がいいだろう。」
二人は脱ぎかけた上着から手を離す。
濡れる前から、もう嫌だった。
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