29話 試験3
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名を慧導と改め、最初に与えられたことは、ただ座ることだった。
語るな、導くな、まずは己を知れ。
そう言われ、彼は黙して座り続けた。
浮かぶ思考を否定し、流そうとするたびにそれも思考ではないかと観察する。
そしてそれをさらに観察する自分がいる。
思考は止まらず、ただ、層を増していくだけだった。
それでも慧導は、ただ黙して座り続けたのだ。
そんな古い記憶が、ふと脳裏をよぎった。
リョーフの前。
踏み固められた土の上に胡坐をかきながら、エドは小さく息を吐く。
そうしていると、やがてアニタ荷物を抱えて走って戻ってきた。
「エド。リラさんに話してきたよ。あんまり無理しないでだって。」
少し息を弾ませながら、アニタはそう言った。
額にうっすら汗を浮かべている。村まで急いで往復したのだろう。
「ありがとう。」
エドが答えると、アニタはそのまま近くの切り株に腰を下ろした。
じっとこちらを見る。
「なるほどね。長命種の私にそういう勝負を挑むのかい?」
リョーフは軽い口調でそう言った。
だが、目は真剣そのものだった。
リョーフを円から出す。
力づくが無理なのであれば、リョーフが自分から出ていくように仕向ければいい。
そして、アニタには食料を持ってきてもらっている。
あとは時間の勝負だ。
エドはただ座っているだけでいい。
「エド君がどのくらい座っていられるかは知らないけど、私はこの円の中から数日でなくても問題ないよ?」
軽い口調だった。
だが、その目だけは少しも笑っていない。
値踏みするような視線が、まっすぐエドを見ていた。
――持久戦は悪手か。
「そっか。でも、あなた以外はどうかな?」
エドはちらりとアニタへ視線を送る。
小さく顎を引いたアニタは、そのまま小屋の方へ駆けていった。
リョーフが眉をひそめる。
「何を――。」
戻ってきたアニタの手には、木の桶があった。
中は空だった。
だが、それで十分だった。
その瞬間、リョーフの表情が変わる。
「君っ......!」
その声に、エドは少しだけ口元を緩めた。
ウーマ用の水桶だった。
小屋の外にいた2頭のウーマ。リョーフの荷馬車を引いていたウーマ用の水桶だった。
「分かったよ。私の負けだ。大人しく自分から円を出ていくとするよ。」
リョーフは肩をすくめ、ゆっくり立ち上がった。
そのまま円の外へ向かって歩き出す。
勝った。
そう思った、その瞬間だった。
「――とでも言うと思ったかい?」
声が耳元で響いた。
え、と思うより早く、視界がぶれた。
何が起きたのか理解する間もない。
胸元を乱暴に引かれる感覚と、身体が浮いたような感覚が同時に来る。
気づけば背中が地面に叩きつけられていた。
どすん、と鈍い衝撃が背骨を走る。
肺の中の空気が一気に押し出され、息が詰まった。
「うぐっ!」
視界いっぱいにリョーフの顔があった。
胸倉を掴む腕は細く見えるのに、外れない。
むしろ押さえつけられた肩が土にめり込むように感じる。
いつ立ち位置を変えたのかさえ分からなかった。
――油断した。
そう気づいた時には、すでに遅かった。
「アニタちゃん、今すぐ水桶を戻してくるんだ。さもないとエド君の腕の骨を折るよ?」
それまでの穏やかな声とは違っていた
冷たく、低く、冗談の入り込む余地が一切ない。
アニタの足が止まる。
「えっ......あ。」
言葉が出ない。
視線だけが、エドとリョーフの間を揺れる。
「早くしなさい。今すぐ動くんだ。」
その瞬間、エドの腕を抑える力がわずかに強まった。
肩口に鋭い痛みが走る。
――本当にやる。
それが、言葉より先に伝わった。
アニタはびくりと肩を震わせ、水桶を抱え直すと小屋の方へ駆けていった。
少しして、アニタが戻ってきた。
空になった両手を前で握りしめたまま、息を整えるように肩を上下させている。
その姿を確認して、エドは土に押さえつけられたまま口を開いた。
「降参だ。どうやっても、あなたを円から出すのは無理みたいだ。」
言葉を絞り出すたび、胸元を掴まれた布が喉に食い込む。
肩に乗る腕の重みは変わらない。
リョーフはすぐには返事をしなかった。
ただ、上からじっとエドの顔を見下ろしている。
本当に諦めたのか。
そう確かめるような沈黙だった。
風が草を揺らし、乾いた葉が地面を転がる。
少し離れたところで、ウーマが鼻を鳴らした。
やがて、リョーフの指先から力が抜ける。
「そっか。」
短く言って、胸倉から手を離した。
圧迫されていた布が戻る。
同時に、押さえつけられていた肩がふっと軽くなった。
エドはその場で一度せき込み、大きく息を吸った。
肺の奥まで空気が入るのに、一拍遅れる。
土に手をついて身を起こす。
その動きだけで肩口に鋭い痛みが走った。
「いたたた。まさかここまでするとは。」
顔をしかめながら肩をさすると、リョーフは何でもないように肩をすくめた。
「まあ、子供ながらなかなかいい線はいってたと思うよ。」
その言葉にエドは返さない。
褒められているのか、試されているのか
どちらもだろう。
リョーフは円の内側を見回し、それから小屋へ視線を向けた。
「さて、今後の方針が決まったから小屋に戻ろうか。」
何気ない口調だった。
アニタがエドの側へ寄る。
何か言いたそうに見上げてきたが、エドは小さく首を振った。
「ごめん、負けちゃったね。」
そう言うと、アニタは少しだけ唇を噛んで頷いた。
リョーフが先に歩き出す。
円の縁へ向かい、何のためらいもなく足を進める。
踏み固められた土に描かれた境界線。
その一歩が、線を越えた。
「――はい。」
エドはその足元をみたまま、静かに口を開いた。
一瞬、風の音だけが残る。
数歩進んでいたリョーフの足が止まった。
振り返る前に、エドは口元を少しだけ上げた。
さっきまで押さえつけられていた側とは思えないほど、静かな顔で。
リョーフの表情も知らずに――。
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