26話 師
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軋む音を立てないよう、ゆっくりと扉を押し開いた。
小屋の中は、相変わらず散らかっていた。
かつてここに住んでいた老人――ルメス爺さんが集めたものが、そのまま残されている。
棚につるされた見慣れない花。
無造作に積まれた分厚い図鑑。
窓辺で止まったままの小さな風車。
机の下には、今も用途のわからない球体。
その小屋の中央で、男が一人、静かにそれらを眺めていた。
落ち着いた色合いの外套。
一切の崩れ無く伸びた背筋。
どこか遠いものを見るような横顔。
先日見せていた、測るような目はない。
その代わり――
髪の隙間から覗いた耳が、わずかに尖っていた。
「まさか、君がやってくるとは、ね。」
リョーフは振り返らぬまま、静かに言った。
低く落ち着いた声だった。
小屋の中に積み重なった古い空気へ、ゆっくりと染み込むように響く。
「ここで、何を?」
エドが問いかける。
その声に、リョーフはゆっくりと視線を向けた。
先日森を抜けた先で見た男と同じ男のはずなのに、どこか印象が違う。
値踏みするような鋭さは影を潜め、今はただ、懐かしい場所を見つめていたものの静けさだけが残っていた。
「それはこちらのセリフなんだが。君は、この小屋の主ではないだろう?」
「ルメスさんのことか?」
「そう。」
リョーフは小さく頷く。
「彼は、私の古い友人でね。」
古い――。
その言葉が、妙に耳に残った。
エドの視線が、自然と男の横顔へ向く。
淡い銀髪の隙間から覗く耳は、人間のものよりわずかに長く、尖っていた。
村では見たことがない。
だが、不思議と納得もあった。
この男には、どこか時間の流れから切り離されたような空気がある。
それは年を重ねた人間とも違う。
もっと長いものを見てきたものだけが持つ静けさだった。
「君、私が人間ではない可能性について考えただろう?」
リョーフは静かに言った。
「つまり、彼はもう――」
そこで言葉が途切れる。
だが、それだけで十分だった。
エドは思わず息を止める。
自分は、髪の隙間から覗いた耳を見た。
そこから、この男が人間ではない可能性を考えた。
さらに、古い友人という言葉。
もし人よりはるかに長く生きる種族なのだとしたら、ルメス爺さんとの間には大きな時間の隔たりがあるはずだ。
その思考の流れを、リョーフは一瞬で辿ってみせた。
頭の中を静かに覗き込まれたような感覚に、エドは背筋へ薄い寒気が走るのを感じた。
「君、エドくんだっけ。君はルメスくんとは?」
名前を知られている。
名乗った覚えはない。
だが、昨日の村人たちとのやり取りを聞いていたのだろう。
「たまに、少し話をする程度だった。ルメス爺さんが死んでからは、よくこの小屋でアニタと遊んだ。」
エドは偽らずに答えた。
「そうか。」
リョーフは短く頷き、再び小屋の中へ視線を巡らせる。
積みあがった本。
見慣れない道具。
埃を被った旅の品々。
そのどれもを懐かしむような目だった。
「ルメスくんとは昔、一緒に世界中を旅していてね。いろんなものを見たよ。」
ーー世界中を旅。
その言葉に、エドの視線が棚へ向く。
そこに並んでいる本の中に一冊、何度も読み返したものがあった。
擦り切れた表紙。
青年が魔法を使い、知恵を絞り、どうにか生き延びながら世界を巡る冒険譚。
何度も夢中になって読んだ本だった。
「ルメスくんは、とにかく記録を残す男でね。」
リョーフはそう言って、小屋の中へ視線を巡らせた。
「例えば、そこに積まれている図鑑とか。見た植物や魔物、土地の特徴。気になったものは何でも書き残していた。」
そう言いながら、棚へ手を伸ばす。
細く長い指が、一冊の本を静かに引き抜いた。
擦り切れた表紙。
何度も開かれた後のある背表紙。
エドにも見覚えがあった。
小屋へ来るたび、何度も読み返していた冒険譚だ。
「それから――」
リョーフはわずかに目を細める。
「私との旅を綴った日記とか、ね。」
エドの目が、わずかに見開かれた。
「その様子だと、この日記がよほど好きと見える。」
リョーフは本を片手に、わずかに口元を緩めた。
「君も将来は旅に出るのかい?」
向けられた笑みに、エドは眉をひそめる。
確かに、あの本は好きだった。
青年が知恵と魔法を使い、数々の困難を切り抜けながら世界を旅する物語。
何度も読み返した憧れの冒険譚。
そしてきっと、その青年は――今、目の前にいるこの男だ。
だが同時に、胸の奥にざらつくものがった。
その憧れの存在が、誘拐犯たちの取引相手だった。
それが、どうしても気に入らない。
「なんで奴隷を買おうとしたんだ。」
気づけば、言葉が口を突いていた。
「必要だったから――では、納得してくれなさそうだね。」
リョーフは小さく息を吐いた。
困った子供を窘めるような口調だった。
「知り合いがね。魔法の才能を持つ子供を欲していたんだ。」
淡々とした声色。
「理由は言えない。だが、手っ取り早く手に入れる手段が、たまたま近くにあった。」
そこでリョーフは肩をすくめる。
「本当に、それだけだよ。」
エドは黙ったまま男を見る。
恐らく、嘘はついていない。
言葉によどみはないし、誤魔化そうとしている感じもなかった。
だが、それが余計に腹立たしかった。
そこには後ろめたさも、罪悪感も薄い。
まるで、必要な道具を買おうとしているだけのような口ぶりだった。
自然と、拳に力が入っていた。
自分があこがれていた存在。
世界を旅し、知恵と魔法で困難を乗り越える冒険者。
その正体が、こんな男だったことが、ひどく悔しい。
その様子を見て、リョーフは困ったように頭を掻いた。
「あー......ごめん。」
らしくもなく歯切れが悪い。
「でも、本当に必要なことだったんだよ。とはいえ、もうしない。別の手段を探すよ。」
無理に取り繕おうとしているのが見え見えだった。
それが余計に腹立たしくて――同時に、どこか馬鹿らしくも感じる。
エドは小さく息を吐く。
気づけば、自分の感情を少し離れた場所から眺めていた。
怒っている。
失望している。
だが、その相手は、自分が勝手にあこがれていただけの男なのだ。
そう考えてしまった瞬間、拳に込めていた力が、少しだけ抜けた。
「お詫び――というわけでもないんだけど。」
リョーフはそう言って、ふっと口元を緩めた。
「私が、君たち二人に少し稽古をつけてあげるよ。」
――二人?
エドは眉をひそめる。
その瞬間、背後の木陰がわずかに揺れた。
振り向く。
すると、小屋の外の木に半分隠れるようにして、アニタがこちらを覗いていた。
ばっちり目が合う。
「アニタ。......えっと、いつから?」
声をかけると、アニタは気まずそうに肩をすくめた。
「あー......最初、から?」
少しはにかむように笑う。
どうやら、かなり前からきいていたらしい。
「勘違いしてほしくないのが――」
リョーフが静かに口を開く。
「わたしは別に、発注したわけじゃないからね。」
その声に、言い訳めいた焦りはない。
ただ、事実を訂正しておきたい。そんな響きだった。
「最終的に取引相手にはなった。けれど、誘拐を手助けしたり、そそのかすような真似はしていない。」
エドは答えない。
だが、その沈黙にリョーフは小さく肩をすくめた。
「まあ、君からすれば大差ないかもしれないけど。」
今回、振り返ってみれば、運に頼りすぎていた。
少し状況が違っていたら。判断を誤っていたら。
自分たちは、あの森で命を落としていたかもしれない。
エドは改めて、自分の力不足を痛感していた。
知識も、判断も、訳には立った。
だが、それだけでは足りない。
もっと確実に、生き残る力が必要だ。
「私はお願いしたいです!」
先に声を上げたのはアニタだった。
アニタはぎゅっと拳を握り締める。
「私、今回ずっと怯えてばかりで......何もできなかった。」
悔しさを堪えるように、声が少し震える。
「エドに頼りっぱなしで、それが悔しくて。もう、あんな思いしたくない!」
まっすぐな言葉だった。
恐怖から逃げるためではない。
今度は、自分も誰かを支えられるようになりたい。
そんな意志が、その小さな身体からはっきりと伝わってきた。
そんなアニタの言葉に、背中を押されたのかもしれない。
エドもまた、自然と一歩前へ出ていた。
リョーフへ向けて、右手を差し出す。
ついさっきまで抱えていた、ちっぽけな意地やプライドは、もうそこにはなかった。
「お願いします。」
短く、はっきりと。そう言い切った。
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