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チートが無いなら無いなりに  作者: 古賀仁成
1章 11歳少年エド。魔法を失う。魔法が無いなら無いなりに。

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21話 商談

励みになるのでブックマークと評価をおねがいします。

男は一歩、間合いを詰めた。

踏み込んだ、というほどの動きではない。

だが、そのわずかな距離の変化だけで、空気が変わる。


アニタの手がさらに強く握り返される。

震えが、はっきりと伝わってきた。


「安心しなさい。」


男は穏やかに言った。

声音は柔らかく、威圧する響きはない。

だがそれは、ただ優しいという種類のものではなかった。


耳に届いた瞬間、わずかに張り詰めていたものがほどけかける。

押し付けるでも、誘導するでもない。

ただ、受け取る側の判断そのものに滑り込んでくるような声だ。


その優しい声色に、強く握っていたアニタの手の力が、わずかに緩んだのを感じた。

理由のない安堵が、ほんの一瞬だけ、そこに差し込む。


だがエドは緊張を解かない。視線もそらさない。


その声には覚えがあった。

優しさで警戒をほどき、相手の判断を鈍らせる。

拒む理由だけを静かに削ぎ落としていく響き。


僧として生きていた頃、自分が使っていたものだ。


より一層の緊張を見せるエドに、男はさらに目を細めた。


必死で逃げ、体力も尽きかけ、ようやく森を抜けた直後。

頼れそうな大人が現れ、敵意のない声で安心を与えられる。


本来ならそれで緩む。

だが、この少年は違う。

なお判断を手放さない。


男はわずかに口元を緩めた。

――逸材だ。


「アニタちゃん。私は敵ではないよ。大丈夫、すぐに魔法で怪我の手当てをしてあげる。」


男は優しくそう言った。


「え?どうして、名前......。」

アニタが戸惑いを漏らす。

だがその声は、先ほどまでの強張りをすでに失いかけていた。


「さっき近くの村の人に会ってね。君のことを探している様子だったから少し話しを聞いたんだ。」

穏やかな調子のまま、男は答える。

「名前と特徴も、そのときに。」


自然な流れだった。

アニタの指先から力が抜ける。

握っていた手が、わずかにほどけかける。


一歩、男の方へ足が動こうとしたその時。


「嘘だ。」


エドが短く言い切る。

アニタの足が止まった。


「え?」

虚を突かれた顔でアニタが振り向く。


「アニタ。その男は誘拐犯の仲間だ。取引先かもしれない。」

「え、そんな......」


戸惑いのままアニタは男を見る。

エドは視線を外さない。


「今、この人は『君のことを探している』って言った。」


一拍。


「村の人が探しているなら、名前が出るのは二人分のはずだ。」

「......あ。」


アニタの息が止まる。

「僕の存在を知らない時点で、その話しは成立していない。」


わずかな沈黙。

男はそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。


だが、それもすぐに消える。


代わりに浮かんだのは、わずかな興味の色だった。


「......なるほど。そうか。君も村の子だったのか。」


視線が、まっすぐエドに向けられる。


「なあ少年。できれば、二人で話せないかい?」

声音は変わらない。

だが、その奥に含まれる熱量が、ほんの少しだけ増していた。


「だめだ。話すなら、いまここでだ。」

エドはそう答えた。


「君、すごくいいね。いいよ。言葉を選ぶことにはなるけど、ここで話そう。」

男は笑みを崩さずに言った。


先の一言を、エドは逃さない。

――君『も』村の子だったのか。


あの反応は二人いたことへの驚きではない。

自分が村の子だったことへのものだ。


つまり誘拐の対象は二人。一人はアニタ。

もう一人はルナだろう。


森の中で逆方向へ逃げた少年の姿が脳裏をよぎる。

あれは偶然ではない。

最初から、そういう組み合わせだった。


そして、見抜かれている。

自分が主導して脱出したことを。

少なくとも、その可能性までは。


エドはわずかに息を整えた。

この男と二人きりになる。


――ありえない。


どのような意図であれ、それは選択肢にすらならない。


「まずは自己紹介からかな。私はリョーフ・ユブラダタス。幅広い商品を扱う商人だよ。」

男はそう言って、両手を軽く広げた。

武器を持っていないことを示す、無駄のない仕草。


「少年の言う通り、私はここで商品を待っていた。」


一度、言葉を区切る。


「だが、取引先は来なかった。となれば、この商談はご破談だ。」

穏やかな口調のまま、結論だけを簡潔に置く。


「安心してほしい。ここでは奴隷の売買自体は合法だが、誘拐は違法だ。」

視線がわずかに細まる。


「つまり、私は受け取る側であって、奪う側ではない。」

軽く肩をすくめる。


「契約が成立していない以上、君たちに手を出す理由はないよ。」

よどみなく言葉が続く。


「それどころか、私は君たちに恩を売りたい。」

声音は変わらない。だが、そこにほんのわずかな意図が混じる。


「怪我の手当てもするし、村まで安全に送り届けよう。」

にこやかに言い切る。

あまりにも都合のいい提案だった。


「こちらは、何を支払えばいい。」

エドは警戒を解かぬまま、そう返した。


「その言葉選びはとてもいいね。」

男は小さく頷く。


「売買には必ず対価が必要だね。私が欲しいのはね、君たちの信用だ。」

穏やかに、しかしはっきりと告げる。


「飛びぬけた才能をもつ二人の、それをね。」


エドは眉一つ動かさない。

「なぜ。」

そして、短く問う。


「君たち二人を見て確信した。この村で終わる器じゃない。ならばここで恩を売っておく価値がある。」

ゆるやかに言葉を重ねる。


「君たちからもらう信用は、いずれ必ず利益になる。だから、いま恩を売る。」


エドは視線をそらさない。

筋は通っている。だからこそ、危険だ。

破綻がなく、無理がなく、乗る理由だけがきれいに並べられている。


エドはわずかに息を整える。


一度は死線を越え、そのまま足を止めずに森を抜けてきた。

食事もない。

休息もない。


アニタも、自分も限界だった。


頭の中で選択肢を並べる。


逃げる。

戦う。

拒む。

交渉する。


どれも現実的ではない。

ならば、それが罠であっても乗るしかない。


この男に遭遇した時点で、盤面はすでに固定されていた。


「......わかった。買おう。」


エドはそう言った。

言葉にした瞬間、張り詰めていたものが音もなくほどける。

肩の力が抜け、浅かった呼吸がようやく落ち着きを取り戻す。


足の重さが急に現実味を帯びた。

ここまで無理に抑え込んでいた疲労が、一気に浮かび上がってくる。


隣で、アニタの手の力もわずかに緩む。


リョーフはその様子を見て柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、いい判断だ。」

穏やかな声音だった。


「近くに馬車を待たせている。そこで手当もできるし、村までもそう遠くない。」

エドは小さく頷いた。

深くは考えない。考えれば、また足が止まる。


「......行こう。」

その一言だけを選びアニタに伝え、三人は歩き出した。


傾いた陽が森の緑を赤く染めている。

長く伸びた影が、ゆっくりと重なり合い、同じ方向へと引かれていった。

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