19話 遭遇
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折れた枝が示す方向へ、エドは足を踏み出した。
森は相変わらず静かだった。
鳥の声は遠く、風が葉を揺らす音だけが、かすかに頭上で擦れている。
その音さえ、どこか距離を隔てたもののように感じられる。
一歩、踏み出す。
湿った土が靴裏にわずかに張り付き、遅れて離れる。
その感触が、やけに意識に残った。
足元には、踏み荒らしたはずの痕跡が、わずかに残っている。
折れた枝、削られた樹皮、踏みしめられて色の変わった土。
どれもが曖昧で、意識して目を凝らさなければ森の景色に溶けてしまいそうだった。
だからこそ、見つけるたびに、わずかに胸の奥が緩む。
同時に、それに頼らなければならない現状を、改めて突きつけられる。
「ちゃんと、残ってるね。」
後ろから、アニタが小さく呟いた。
確認というより、自分に言い聞かせるための声だった。
「大丈夫そう?」
歩調は緩めないまま問いかける。
立ち止まれば、そのまま足が止まりそうな気がした。
少しの間。
葉擦れの音だけが、二人の間を埋める。
その音は一定ではなく、風の強弱に合わせて、かすかに揺れる。
近くでなっているようで、どこか遠い。
耳に届いているはずなのに、意識の奥には沈んでこない。
「うん、大丈夫。」
帰ってきた声は弱い。
息に混じるような、微かな音だった。
振り返らない。
振り返れば、足が止まる気がした。
それでも、後ろの様子は嫌でも伝わってくる。
小さな足音。
踏みしめるたび、わずかに間を置いて次の一歩が続く。
土を踏む音に、わずかな引きずりが混じっている。
一定ではない。
ほんのわずかに、遅れている。
それでも、止まらない。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。
だが、その迷いすら、長くは続かなかった。
止まれば終わる。
そんな感覚が、どこかにあった。
無理をしている。
そう結論付けるのは簡単だった。
だが、その言葉を口にしたところで、何かが変わるわけでもない。
歩き続けるしかない。
それは、エド自身も同じだった。
足は重い。
一歩ごとに、わずかに持ち上げる力が要る。
気を抜けば、そのまま引きずるように落ちそうになる。
呼吸も浅い。
吸っているつもりでも、肺の奥までは届いていないような感覚がある。
それでも、止めるわけにはいかない。
あとどのくらい歩けばいいのか。
答えはない。
ただ、折れた枝と、削られた樹皮だけが、進むべき方向を示している。
それを見失えば終わりだ。
だから、目を離さない。
言葉は減り、
足音だけが、森の中に小さく積み重なっていく。
気づけば、歩く速さも、ほんのわずかに落ちていた。
目印を見失わないよう、意識を一点に寄せる。
視線は、少し先の地面と幹の境目。
折れた枝や、削られた樹皮。
そのわずかな違いだけを拾い上げるように、目を動かす。
周囲の景色は、ほとんど意味を持たない。
同じ色、同じ形が重なり続け、やがて一つの塊のように溶け合っていく。
その中から、異物だけを探す。
自分が見落とすこともあるだろう。
そう思い、アニタにも同じように周囲へ気を配ってもらっていた。
言葉は交わさない。
それでも、ふとした瞬間に視線が重なり、次に向く先がわずかに揃う。
互いに、同じものを探しているのだと分かる。
次、
見つける。
また次、
拾い上げる。
それだけを、繰り返す。
どれほど歩いたのか、もうわからない。
時間は輪郭を失い、ただ同じ動作だけが、途切れることなく続いている。
気づけば、光の色が変わっていた。
頭上から落ちてくるそれは、わずかに角度を持ち、幹の片側だけを照らしている。
陽が、傾いている。
そう認識したとき、視界の端が揺れた。
焦点が合わない。
一度瞬きをしても、わずかに遅れて像が重なる。
足を出す。
地面の感触が、半拍遅れで伝わる。
思考が、鈍い。
それでも、止まらない。
止めるという選択が、最初から用意されていないかのように、体だけが前へ出る。
――その時だった。
視界の奥。
重なり合った木々の隙間に、わずかな抜けがあることに気づく。
最初はただ色が薄いだけに見えた。
だが、一歩進む。
また一歩。
そのたびに、そこだけが、ほんのわずかに輪郭を持ち始める。
光だ。
森の中にあるはずのない、広がりを伴った光。
葉に遮られず、幹にも途切れず、
ただまっすぐに差し込んでいる。
息が、かすかに乱れる。
気づかぬうちに、視線がそこへ引き寄せられていた。
足が、わずかに緩む。
――開けている。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かがほどけかける。
だが同時に、それが本当に出口なのかを確かめるまで、
その感覚に身をゆだねることを、どこかで拒んでいた。
それでも。
確かにそこには、まばゆいほどの光が、広がっていた。
一歩、踏み出す。
足の裏に伝わる感触が変わる。
湿った土ではなく、乾いた地面。
踏みしめた時の沈み込みが、わずかに浅い。
視界が、開ける。
それまで遮っていた木々が途切れ、
目の前になだらかな丘が広がっていた。
おもわず、足を止める。
草が揺れている。
一面に広がるそれは、風に押されるたび、波のように形を変えた。
柔らかな緑。
そこに差し込む夕日の色が重なり、きらきらと細かな光を返している。
森の中とはまるで違う景色。
頬に風が触れる。
木々に遮られることなく流れてきたそれは、
ひやりとした冷たさを含んで、火照った肌を撫でていく。
思わず、息が漏れた。
それが安堵からなのか、それともたんに力が抜けただけなのか、
自分でもよくわからなかった。
一歩踏み出した先でエドは足を止めた。
見覚えがある。
視界に広がる丘の起伏。
踏み荒らされたままの草の一角。
ほんのわずかな違いしかないはずなのに、それがどこなのかはっきりとわかった。
自分たちが襲われた場所だ。
喉の奥が、わずかにひりつく。
あの男たちはここから自分たちを連れ去ったのか。
森の奥へ。
あの小屋へ。
そう考えるのが自然だ。
だが、その思考はすぐに途切れる。
視界の中央。
男が一人、立っていた。
風に揺れる草の中で、ただ一人、動かない。
身なりは整っている。
旅装というよりは、商人のそれに近い。
布地はくたびれておらず、靴も泥にまみれてはいない。
この場所には、似つかわしくない。
――待っていたのだろうか。
そう思わせるほどに、男は自然にそこに立っていた。
そして、その視線はすでにこちらに向けられている。
値踏みするような、あるいは、品を確かめるような。
静かで、揺るがない目だった。
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