14話 風
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淡い朝の光が、木々の隙間から細く差し込んでいた。
夜の名残を残した森の中を、エドとアニタはただひたすらに駆ける。
湿った土を蹴り、露に濡れた草を踏みしめるたび、足元がわずかに滑る。
乱れた呼吸が喉を焼き、胸の奥では心臓が激しく打ち鳴らされていた。
それでも、止まるわけにはいかない。
エドは一瞬だけ背後を振り返った。
木立の向こう、まだ距離はある。
だが、二つの影が、確かな速さでこちらへ迫ってきていた。
一歩ごとに、その姿はわずかに大きくなる。
枝を払い、起伏のある地面をものともせず、迷いなく追ってくる。
ただ速いだけではない。
獲物を逃がすまいとする、研ぎ澄まされた執念があった。
――追いつかれる。
その予感が、冷たい手となって背筋をなぞる。
「エド......!」
不安に揺れるアニタの声。
だが、エドは前を見据えたまま、その手を強く握り返した。
「まだだ、走れ。」
走り続けると足元の草は次第に丈を増していった。
はじめは足首ほどだったそれは、やがて膝を覆い、ついには腰のあたりまで伸びる。
露をたっぷりと含んだ葉が衣服を濡らし、走るたびに足へまとわりついた。
いつの間にか、足元にあったはずの獣道はほとんど見えなくなっていた。
踏み分けられた痕跡も、高く生い茂る草に呑み込まれている。
それでも二人は止まらない。
ただひたすら、高台を目指して駆け続けた。
やがて、その先に終わりが見えた。
草の向こう。朝靄に霞ながらも、地面が不自然に途切れている。
高く伸びた草に遮られ、全貌は見えない。だが、あれは間違いない。
――崖だ。
逃走の果て。
二人がたどり着いた、文字通りの行き止まり。
背後からは、なおも追手の気配が迫ってくる。
あの二人ならほどなくここへたどり着くだろう。
エドは足を止めると、素早く周囲を見回した。
そして、崖際から少し離れた草むらへアニタを導く。
「ここに隠れて。絶対に、声をあげず、見つからないように。」
切迫した声に、アニタは息を呑みながらも頷いた。
震える手で草をかき分け、その中へ身を沈める。
高い草が彼女の姿を覆い隠していく。
その姿が完全に見えなくなるまで確認してから、エドはようやく視線を外した。
そして、ゆっくりと振り返る。
荒い呼吸を整えながら、迫り来る足音に耳を澄ませる。
胸の鼓動は激しい。だが、不思議と頭は冴えていた。
エドは草をかき分け、追手を迎える位置へと進み出た。
崖際まで進むと、一本の木が斜面に根を張るように立っていた。
その周囲には、腰の高さまで伸びた草が密に生い茂っている。
エドはそこへ身を滑り込ませた。
草が体を覆い隠し、外からはほとんど見えない。
崖下は高く、絶壁だ。落ちたら這いあがってくるどころか命もただでは済まないだろう。
息を潜めながら素早く手を動かす。
足元に生えた長い草を束ね、結び、いくつもの輪を作っていく。
草結びの罠。
粗末なものだが、足を取らせるには十分だろう。
追手が踏み込んでくるであろう場所を見定め、いくつかを慎重に仕掛ける。
時間はない。それでも、手元に迷いはなかった。
次に、エドは周囲へ視線を巡らせる。
必要なのは武器だ。
ただし、何でもいいわけではない。
細すぎれば折れる。太すぎれば振り回せない。
長すぎれば扱いづらく、短すぎれば間合いが足りない。
振り抜くのに抵抗がなく、叩きつけても容易には折れないもの。
そんな都合のいい枝が、そう簡単に転がっているわけ――
いや、あった。
地面に半ば埋もれるように落ちていた一本の枝を拾い上げる。
手に馴染む重さ。太さはやや心もとない。だが、長さはちょうどいい。
エドはそれを利き手で握り、二、三度振ってみた。
風を切る感触が腕に伝わる。
悪くない。
小さく息を吐くと、再び草むらへ身をかがめた。
枝を握る手に、じっとりと汗が滲む。
耳を澄ませば、遠くから草をかき分ける音が近づいてくる。
――来る。
やがて、少し離れた場所から男の声が響いた。
「やーっと追いついた。残念だったな。二択を外しちまって。」
草をかき分ける音とともに、嘲るような笑い声が続く。
「あそこは左に進まねえと森からは出られねえんだよ。」
もう一人の男が低い声で言った。
「こっちは崖だ。もう、てめえらは逃げられねえよ。」
その声は、明らかにエドへ向けられていた。
――見つかっている。
位置は完全に割れていた。これでは隠れている意味はほとんどない。
エドは小さく息を吐くと、先ほど拾った枝を竹刀を持つ剣士のように構え、草むらの中からゆっくりと立ち上がった。
二人の男が、じっとこちらを見据えている。
革鎧を身につけ、手には短剣。
無精ひげに覆われた厳つい顔。
自分たちを急襲し、さらった男たちに間違いなかった。
「お前の周りだけ草が倒れてるぞ?」
片方の男が口元を歪める。
「あれで隠れてるつもりだったのか。笑わせてくれる。」
もう一人が周囲を見回し、鼻で笑った。
「もう一人はどうした?お前に用はねえんだ。近くにでも隠れてるんだろ。」
エドは枝を握る手に力を込め、声を張り上げた。
「彼女はもう逃がした!ここにはいない!僕がお前らの相手になる!」
その言葉に、男たちは顔を見合わせ、次の瞬間、声を上げて笑った。
「お前みたいながきんちょがか?その棒切れでか?」
「俺らにかなうとでも思ってんのか?」
さらに一歩、また一歩と近づいてくる。
「しかも、てめえのすぐ後ろは崖だぜ」
男は短剣を弄びながら、にやりと笑った。
「すぐに突き落としてやるよ。そこで震えてろ。」
草を踏み分ける足音が、ゆっくりと迫る。エドの背後には、数歩の余地を残すのみで断崖絶壁が迫っていた。
男たちが草結びの罠にかかれば体勢を崩す。この場所なら、そのままがけ下へ転落する可能性は高い。
罠まで、あと数歩――
その瞬間だった。
思わず、エドの視線が男たちの足元へ落ちる。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
男の片方が口元を歪める。
「ククク......。まさか、これで俺らを転ばせるつもりだったのか?」
男は足元の草を乱暴に踏みつけた。
束ねられた草の輪が、あっけなく潰れる。
もう一つ。
さらにもう一つ。
即席の罠は、何の役目も果たせないまま踏み荒らされていった。
「子どもだましもいいとこだな。」
男たちは笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
エドは枝を握る手に力を込めた。
だが、その手も、両ひざも恐怖と緊張を抑えきれずがくがくと震えている。
男たちとの距離を少しでも保とうと、じりじりと後ずさる。
しかし、その差はもうほとんどない。
にやける男たちの顔。
短剣の刃先すら届きそうな距離だった。
そのとき――
ぱらぱら、と。
乾いた砂の落ちる音がした。
次の瞬間、エドの足元の地面がわずかに崩れる。
「あ。――」
声になるより早く、体が傾いた。
バランスを失ったエドの身体は、そのまま崖の外へ投げ出された。
「うわあああああああ!!アニタああああああ!!」
エドが最後に叫んだのは、幼馴染の少女の名前だった。
次の瞬間――
突風。
何が起きたのか理解する間もなく、男たちの身体が大きく揺らぐ。
「なーー!?」
足元をさらうように吹きあがった風が、二人の体勢を奪った。
そのまま、男たちは崖の外へと大きく投げ出された。
悲鳴を残して。
ほどなくして、大きな実が弾けるような破裂音が響いた。
その後、辺りは静寂に包まれる。
エドは崖のすぐ下で、自らの身体に結び付けたロープをしっかりと握り、その身を宙に支えていた。
荒い呼吸が、静寂の中に小さく響く。
胸は激しく上下し、指先にはまだ力がこもっていた。
だが、もう終わったのだ。
崖下を吹き抜ける風だけが、静かに二人の勝利を告げていた。
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