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1-2 日常

 結局、石黒との電話は平行線のまま終わった。


「そこをなんとかお願いししゃすよぉ~! 佐藤さんの腕ならイケるって信じてますから!」


 受話器から聞こえる、営業特有の、中身の詰まっていない猫なで声。


 現場のキャパシティも機械の悲鳴も無視した、机上の計算だけで弾き出された「納期」という名の暴力。


 都合のいい時だけ現場を神格化するな。こっちはただの時給制の労働者だ。


 『日曜出勤』


 確定したその四文字が、佐藤の貴重な週末を真っ黒に塗りつぶした。


「・・・クソが」


 退社を告げるタイムカードの打刻音が、いつもより低く、虚しく響く。

 工場のゲートを出ると、夕闇が栃木の代わり映えのしない田園風景を急速に飲み込もうとしていた。

 遠くの空は、昼間に東京で大暴れした魔獣が残した煤煙のせいで、どろりと濁った紫色に腐っている。


 身体中に染み付いた、安っぽいプラスチック樹脂と油の臭い。

 それを少しでも早く洗い流したくて、佐藤は重い足取りで住宅街の細い道を歩いていた。


「・・・ん?」


 その途中。

 街灯が点きかけた小さな児童公園のベンチに、一人の少女が座っているのが見えた。

 従兄弟の娘――中田美奈、中学二年生。


 膝の上で、真剣な顔でハサミを動かしている。


 着ているのは公立中学の芋っぽい紺色のジャージ。袖口には美術室の絵の具か土か分からない汚れがついていて、首からは千円前後の安物っぽいワイヤレスイヤホンがぶら下がっている。


 佐藤は一瞬、足を緩めた。


 声をかけるべきか、このまま気づかないフリをして通り過ぎるべきか。


 ――最後に話したのは、実家に帰った5年前の盆だったか。


 小学生だった美奈は、佐藤がたまに出会うと無邪気に駆け寄ってきたものだ。


 だが、今は違う。生活圏は重なっているはずなのに、見かけても言葉を交わしていない。そうして気づけば完全に他人になっていた。


 思春期の女の子にとって、42歳、独身、5年もろくに会っていない、加齢臭と機械油の臭いがする中年おじさんというのは、それだけで「視界に入れたくない厄介な存在」なのだろう。


 それか親戚の誰かから「あのおじさんはまだ独身でね」と吹き込まれているのかもしれない。


 まあ、42歳独身男性なんてそんなものだ。


 佐藤は自嘲気味に心の中で呟き、公園の前をそのまま通り過ぎようとした。


「・・・あ」


 不意に、美奈が顔を上げた。


 目が合う。


 一瞬だけ、何かをためらうような、明確な視線の迷いがあった。しかし、彼女は小さく唇を噛むと、意を決したように声を絞り出した。


「・・・お疲れさまです。佐藤さん」


 昔みたいに「おじさん!」と呼ぶことは、もうなかった。

 完全な、親戚の「他人」に向ける敬語。


「こんばんは美奈ちゃん。」


 佐藤は短く返した。おじさん側の気遣いのつもりで、それだけで通り過ぎようとした。だが、


「あの!」


 話しかけたのは美奈だった。


「あの。あそこの、佐藤さんの工場の外にあるゴミ箱・・・いつも、透明な大きいビニールシートとか、たくさん捨ててありますよね」


 美奈はごくりと唾を飲み込み、スマホの画面を差し出してきた。そこには、部活の調理室のオーブン皿いっぱいに広がる、バカみたいに巨大な試作クッキーの写真があった。その大きさは人間の顔ほどもある。


「家庭科部で、文化祭の目玉に『顔より大きいギガクッキー』を出すことになったんです。でも、100均とかお店を何軒まわっても、こんな大きいクッキーが入るラッピング袋がどこにも売っていなくて・・・。ネットで特注すると予算が足りないんです」


 美奈はベンチの上に広げた、市販の小さなクリア袋を何枚も並べた。それをセロハンテープで無理やりツギハギして、巨大な袋を自作しようと苦戦していたらしい。

 気まずいはずの「5年会っていないおじさん」が通りかかるのをここで待っていたのは、背に腹を代えられないほど切羽詰まっていたからだ。


「だから・・・佐藤さんの会社のゴミ箱に捨ててある、工業用の大きい透明シートの切れ端を、もし良ければ分けてもらえないでしょうか。ハサミで切って、自分たちで大きい袋を作りたいんです」

「あー・・さてそれはやめといたほうがいい」


 佐藤は、現実的なトーンで言った。


「そんなゴミ箱に落ちてるシートなんか、汚れや油がついてるかもしれないだろ。おまけにそんなツギハギじゃ隙間から空気が入って、文化祭の当日にはそのデカいクッキー、湿気てフニャフニャになるぞ。せっかく作ったのに売れ残ったらどうするんだ」

「・・・え、あ・・・やっぱり、ダメですかね・・・」


 美奈の声が、目に見えてしぼんでいった。スマホを握る手が、心なしか小さく見える。


 その様子を見て、佐藤はふぅと頭をかいた。


「そのクッキーの縦と横のサイズ、俺のスマホに送れるか?」

「え・・・?」


 美奈が驚いたように目を丸くした。


「そんなツギハギのゴミ使わなくても、工場の倉庫に綺麗な透明の包装ロールがいくらでも余ってる。サイズ指定してくれれば、工場の機械通して、そのデカいクッキー専用のラッピング袋を何十枚でも綺麗に作っておいてやるよ。大した手間じゃない」

「・・・え。いいんですか」


美奈は目を丸くしながら聞いた。


「文化祭、来週だろ。日曜に出勤することになったからよ。そのついでに間に合わせてやるよ」

「・・・助かります。お願いします」


 それだけ言って、美奈は頭を下げた。


「おう。任せとけ」


 佐藤も、それ以上何か気の利いたことを言えるような男ではなかった。


 嬉しそうに友達にラインしている美奈を見て、佐藤の脳裏に、ふっと遠い記憶がよみがえっていた。


 ――そういえば、俺にもこんな時代があった。


 予算が足りないだの、クッキーの見た目がどうだの、大人から見ればひどくちっぽけで、どうでもいいことにそれこそ世界の全てがかかっているみたいに、必死に頭を悩ませるそんな時期。


 今の自分は、身体中に機械油の臭いを染み付け、理不尽な納期に追われるだけの乾ききった大人になってしまったけれど。5年会わないうちに大きくなったこの子は、今、まさにその『子どもだけの特別な時間』の真ん中にいる。


 そんな子のちょっとしたワガママを聞いてやるくらい、したっていいだろう。


 それなら、あのクソみたいな日曜出勤にも、ほんの少しだけ意味があるような気がしてくる。


「じゃあな。暗くなる前に帰れよ」


 佐藤が再び歩き出すと、背中の方から衣類が擦れる小さな音がした。


「・・・あの」


 振り返ると、美奈が膝の上に乗せていた、油の染みた小さなビニール袋を差し出していた。

 突き出されたその手が、微かに震えている。


「今日の部活の試作品なんです。・・・焦げてるし、味は保証できないですけど」


 袋の中には、焼きムラだらけの不格好な形のクッキーが三枚、身を寄せ合うように入っていた。


「・・・ありがとな。夜食にさせてもらうわ」

「早めに食べてくださいね」


 美奈はそう言って、早足で公園を後にした。


「じゃあな。気をつけて帰れよ」

「はい!ありがとうございます!!」


 佐藤はクッキーの入った袋を作業着のポケットに慎重にねじ込み、再び歩き始めた。


 夜の湿った空気の中、ポケットの中の小さな温もりに触れる。

 日曜出勤の絶望が、栃木の冷たい夜風に吹かれて、ほんの少しだけ薄くなっていくのを、佐藤は静かに感じていた。

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