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1-3 日常

「ただいま」


 金曜の夜、誰もいない四畳半の玄関に一応の挨拶をして、すぐにシャワーを浴びる。

 首筋や爪の隙間にこびりついた機械油とプラスチック樹脂の臭いは、安物の石鹸で二度洗ったくらいでは完全に落ちてはくれない。それが佐藤の、いつもの日常の区切りだった。


「はぁー」


 今日何度目かわからないため息をついて、アパートの万年床に寝転がった。佐藤は作業着のポケットから美奈のクッキーを取り出した。


 焼きムラだらけで、形もいびつ。お世辞にも上手とは言えない。だが、口に運ぶと、少し焦げた苦味の後に、不器用な甘さが広がった。


 「・・・ま、こんなもんだよな」


 ボロアパートの、雨漏りのシミが浮いた薄汚れた天井を見つめながら、ぽつりと呟く。


 プシュッ、と不快な金属音を立てて、100円台の安物の発泡酒を開けた。キンキンには冷えていない、少しぬるいアルコールが、工場勤務でからからに乾いた喉を容赦なく刺激する。

 枕元に置いたスマホの画面では、YouTubeのライブ配信が流れていた。


 『みんなー! 今日もキラメキ届いてるかなー!? チャンネル登録よろしくねっ♥』


 画面の向こうでは、フリフリのレースとラメをあしらった衣装を着た少女――今をときめく『魔法少女』の一人が、カメラに向かって可憐にウインクしていた。背後には、ついさっき彼女が一人で消し飛ばしたという、レベル1魔獣の巨大な死骸が煙を上げて転がっている。


 リアルタイムの視聴者数は、15万人。


 チャット欄は、一秒間に何百通もの熱狂的なコメントと、高額な投げ銭の赤や緑の光で目まぐるしく埋め尽くされていた。


 十年前、最初の魔獣が現れた時は世界中がパニックになったものだが、今や『魔法少女』は国の防衛システムであり、同時に最大の国策エンターテインメントとして完全に日常に溶け込んでいる。


 「すげえなぁ・・・」


 佐藤は発泡酒をあおりながら、ぼんやりと画面を眺める。

 42歳、独身。毎日、油の臭いにまみれて三十トン成形機の前に立ち、週末は都合のいい納期という名の暴力で潰される。漠然と生きてきて、気づけば人生の折り返し地点をとうに過ぎていた。


 自分の人生を惨めだなんて思ったことはない。これが自分の身の丈に合った現実だし、世間のみんなだって何かしらを諦めて、折り合いをつけて生きているのだろう。不慢を言えばキリがない。


 ただ、この生活がこの先、5年、10年、20年とただただ続いていくのだと、自分の「将来」を想像しようとすると、途端に胸の奥がひどく重くなる。


 これから先、何のために、どこに向かってこのすり減るような日々を繰り返せばいいのか。その答えを探すこと自体が、42歳の身体にはもう、耐えがたい労働のようだった。


 チャット欄で目まぐるしく踊る「キラメキバスター!」というファンたちの熱狂的な定型句を見つめていると、胸の奥に小さな、乾いた感覚が芽生える。


 あえて言葉にするならば、それは羨望なのかもしれない。


 いつ死ぬかも分からない戦場に立つ少女たちを「羨ましい」などと思うのは、大人の男として決定的にズレている。それは分かっている。


 それでも、あんな風に世界中から必要とされて視線を集め、まばゆい光の中で「自分の存在価値」を100%肯定されている彼女たちの輝きが、ほんの少しだけ、佐藤の濁った網膜には眩しすぎた。


 こうやってYouTubeを見て、酒を煽る。特別なことは何もない。ただそれだけの繰り返しで、一週間分の鬱屈も、自分自身の人生の残り時間も、何の意味も持たないままサラサラと音もなく消費されていく。その空虚な時間の浪費こそが、今の佐藤にとって唯一の、そして最も手軽な現実逃避だった。


 劇的な何かを望むような若さは、とうに擦り切れてしまった。そんな能力も意欲もないということだけはこの42年間で嫌というほど味わった。

 きっとこのまま、何が起こるわけでもなく、ただなんとなく歳を取って、いつの間にかフェードアウトしていくんだろう。


 「・・・さて、寝るか」


 佐藤はスマホを裏返し、画面をパチリと消した。部屋が急に、元の静まり返った四畳半の暗闇に戻る。

 口の中に残った不格好なクッキーの甘さだけが、妙に現実味を帯びて残っていた。

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