エピローグ3 笑って「大丈夫」と言えるように。
「ほれ。紅茶」
「ありがとう、ございます」
「志保には会って行くか?」
「はい、後で」
ホッとする味だ。
さっきの公園のベンチに戻って、先輩が買ってきてくれたペットボトルの紅茶。まだ、私の好きな飲み物、覚えていてくれた。
志保さんが淹れてくれた紅茶が、急に恋しくなった。
「どうしたんだ? 復帰要請か?」
「そんなわけないじゃないですか。私も、やめましたし」
「そうか。お疲れさん」
先輩の手には、カフェオレの缶コーヒーだ。一口飲んで、息を吐いた。どこか、さっきより変な力が抜けたように見える。
「先輩も、苦労されたようで」
「お前ほどじゃないさ。目を見れば、わかる。それに、さっきの動き、前より、洗練されてた」
「ありがとう、ございます。先輩も、全然動き鈍ってないじゃないですか」
「訓練は、続けてた。いつでも、後悔しないように」
凄いことだ。それは。なかなかできるものじゃない。来るかもわからない脅威に備えるなんて。でも、それは何と言うか。
「先輩らしいですね。くくっ」
「そうか?」
「えぇ」
頬を掻いて照れる先輩を見て。私は少しだけ、寂しくなった。やっぱり、時間は流れているんだって。
こんな素直な反応、私はあまり見たことがない。
「奏さんも、呼んで良いですか?」
「奏? 来てるのか?」
「はい。その、今、一緒に暮らしてまして」
「マジで。そんな話、聞いてない」
「あぁ、言わないでいてくれたのですか、奏さん」
「結愛が無事だとは聞いていたけど。そっか」
ぼんやりとした目を、空に向けて、先輩はぽつりと。
「ありがとな。奏」
なんて言った。それは、私があと千回くらい言いたい言葉だ。
「多分、すぐに来ますよ」
「あぁ。いや、俺が迎えに行こう。車持ってくるわ」
「先輩の家、ここから近いのですよね」
「あぁ。結愛は、志保と家で待っていてくれ」
「……わかりました。奏さんの位置情報、送りますね」
普段使っていたタブレットも、デウス・エクス・マキナ・バージョン3も、全部組織に返したけど。その程度のこと、スマホがあればできる。
「頼んだ。よし、こっちだ」
また、集まれる。
楽しかった日々を終えて、また。
なんで躊躇っていたのだろう。そう思ってしまうくらいに、早足で先輩についていく。
「やはは。待ってたよ。結愛ちゃん」
志保さんはそう言って、私を出迎えた。
「赤ちゃん……お二人に似て、綺麗な顔をしていますね」
紅茶を淹れてくれる志保さんを横目に、私はベビーベッドを覗き込む。
「ありがとう。名前は一希だよ」
「何歳ですか?」
「もうすぐ一歳」
「そうですか。なんか、良いですね」
不思議だ。自分より小さくて、弱々しいのに、力強さを感じる。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
「やはは、ゆっくりね」
思わず飛びつくように飲みそうになって、志保さんに少し笑われて、踏みとどまる。紅茶とは、香りから味わうものだ。
「とても、美味しいです」
「ありがと」
「……その、何も、聞かないのですか?」
「うん。今ここに結愛ちゃんがいることが、大事。色んな事を悩んで、乗り越えて来てくれたこと、それは何となく伝わってくる」
ふんわりとした微笑みを向けられて、少しだけ、涙が出そうになった。
「志保さん。ごめんなさい」
「急にどうしたの?」
「私が、変に迷わなかったら、先輩達は今頃、引っ越しなんか、しなくても」
「やはは。良いよ。これくらい覚悟してたもん。それに、私たちの問題だったし。結愛ちゃんが変に責任を感じなくて良い。私たちの力が足りなかっただけ。納得してるし、ここでの生活も、結構充実してるんだ」
頭を下げた私に、手のひらが乗せられた。柔らかく、撫でてくれる手は、冷たい。けれど、温かい。
「これから、きっと楽しい日々が待ってる。奏ちゃんと結愛ちゃんが来てくれたのなら、もう、何も怖くないし、寂しくない」
「はい」
「ありがとう。また、出会ってくれて」
もう、駄目だ。
目元を擦っても擦っても、もう、止められなかった。
もっと早く、なんて後悔はもうしない。きっと、これで良かった。
これで、良かったんだ。
「ありがとな。奏。そのつもりだったかはわからないけど。俺はまた、奏に助けられた」
「気にしなくて良いよ。私が、そうしたかった。私が後悔しないようにしただけだから」
「それでも。ありがとな。世話になりっぱなしだ」
「そうかな? 私の最高の判断と采配は、妹達を送り込んだ時だと思う」
「本当に助かりました本当に。マジで、ありがとうございました。花音ちゃんと音葉ちゃん達にも、直接お礼、言いたいよ」
「今度遊びに来るって」
「楽しみだ」
とにかく生活の基盤を稼がなきゃいけないという状況と、妊娠で大変な志保を助けたいという感情の間にいた時、大学の長期休みを利用して二人で来てくれたことには、今でも頭を下げても下げ足りない。
住宅街だから少しだけ慎重に運転。助手席に座るスーツ姿の奏。面接に行ってたとか言っていたな。
「良い家だね。一軒家か」
「あぁ。志保のお義父さんが用意してくれてな」
「なるほどね。ここなら、私たちの家からも近いや」
「あのマンション、ねぇ。結愛、どんだけ活躍したんだよ」
「私一人なら、死ぬまで養えるって」
「人生クリア早いなおい」
「美人な奥さんと一軒家、車持ち。株で悠々自適な生活を送っている人が、何を言っているのやら」
「恵まれてるだろ」
「そう言える自信を持てるのは良いことだよ」
家に着いた。逸る気持ちを抑えて車を身長に駐車場に入れて。家の扉を開く。
「やっほー、奏ちゃん。おひさ」
「志保さん。お久しぶり」
四人。揃った。
やっと。四人。集まれた。
「遅い同窓会だね」
「あぁ」
「じゃあ、張り切っちゃうね」
志保がそう言ってエプロンをつける。
「あっ、手伝うよ。これ借りるね」
キッチンのわきに置いている棚から、エプロンを一つ手に取り付けて、志保の隣に立つ。
「やはは。客に料理させるホストか……」
「ありだと思うよ。ほら、ママ友と料理談義するみたいなものだよ」
「な、なるほどぉ」
志保がママ友を教えられてどうする。と言うのは野暮か。
「では、私と先輩で買い物行っています」
「お願いねー。後で連絡するから」
「はーい」
結愛を助手席に乗せるのも、随分と久しぶりだ。
大分、遅れてしまった。
俺は、失恋の痛みを知っているのに、何もできなかった。また、奏に頼ってしまった。
だがこれで、俺は高校時代の忘れ物を、全て拾うことができた。
「鶏モモと片栗粉。唐揚げですね。あとは、すき焼きをするようです」
「自分の好きなもの作れば良いのに。奏の奴」
「奏さんの考えだってわかるんですね」
「九重家の食卓は、志保の気分次第だ」
「それはそれは」
さて……。近くの一番大きなスーパーに来た。
「覚悟を決めろ。結愛」
「はい?」
「俺の動きが鈍っていないのには、ここでの買い物も理由に上がる。……さぁ、始めようか」
「せ、先輩が、ただの日常のワンシーンで、スイッチを入れた……?」
「先輩、三番の棚で片栗粉を回収、そのまま直進して卵に突撃してください。あと三十秒後、タイムセールで五十円になります」
「了解。結愛はそのまま肉コーナーに向かえ」
「鶏モモ、すき焼き肉は回収しました。ドリンクコーナーに向かいます」
「よし。ついでに氷も頼む。その後、車に移動しろ。そこで合流だ。レシートは忘れるな」
「了解」
最後のすれ違いポイント、車の鍵をすれ違いざまに渡した。
こういう場で、カートを使うか、自分の手でカゴを持つかは議論だろう。
カートは素早い移動に邪魔だとか。カゴを持って横に面積を取るなとか。
俺はどうするか。そもそもぶつけないから関係ない。
最短で素早く、売り場を駆け抜ける。
恐らく、すれ違う人達からは殆ど認識されていない。闇討ちの技術の応用、視線の方向を読む、誘導する。
人間の視線は素早く動くものに誘導される。だが、ここはスーパー。そして、特売の時間。頭の中にはその目的のものが常にある状態。ならばある程度、隠密は可能だ。
いや、隠密する必要は無いけどさ。ただ単純に、なるべく迷惑に思われないようにしたいだけだ。
レジはこの時間帯で俺が知る中で最速の人のところに並ぶ。隣のベテランっぽい女性のレジの方が並んでいるようだが、それは、今並んでる人のレジが速過ぎるだけ。
ふっ、初心者共が。この若い男のレジは、多少手荒だが、速いぞ。手の動きが効率的だ。
黙々淡々と、商品を壊さない最低限の気づかいで、全てを速さに全振りしているスタイルが好みだ。
「やはり、先輩もそこに並びましたか」
「別に店員とコミュニケーション取りたいわけじゃないしな」
車に戻ると、結愛がエンジンをかけて待っていた。
「さぁ、行きましょう。仕込みの時間もありますし」
トントントンと隣から音がする。手慣れている。流石主婦。
その横で私は唐揚げの下ごしらえ。史郎君達が買ってきてくれた肉に下味を馴染ませている。
「ねぇ、奏ちゃん」
「うん?」
「うちの子可愛くない?」
「そうだね。いくらでも眺めていられるくらい。史郎君と志保さんの間と考えれば、美形に生まれるのは納得かなぁ」
「だよねぇ」
「ふふっ、謙遜しないねぇ。されても困るけど」
さて。しばらく置いておけば良いだろう。
「それでさ、志保さん」
「うん?」
「その、どう? 結婚して」
「幸せだよ。誰が何と言おうと、ここに来るまで、いくつも失っていようと、幸せだよ」
迷いなく、そう言い切った志保さんの強さは、今でも私には、眩しいものだった。
私に、この強い眩しさが、あったなら。
淀みない輝きが持てたのなら。
「そして、今日。もっと幸せになれた。失ったと思っていた時間が、戻って来た」
「……そうだね」
あと、どれくらい迷って、間違えるのだろう。
「よし。カセットコンロ―」
鼻歌交じりに上の棚に手を伸ばす志保さんの後ろから伸びる手。
「やはは。ありがとう、史郎」
「高いところは身長の仕事だ」
「ん。ありがと」
思わず、頬が緩んだ。
ほんとうに、もう、大丈夫なんだね。
リビングで、三人が、ベビーベッドの傍のソファーに、身を寄せ合って眠っている。
ソフトドリンクしか出してない筈なんだけどな。雰囲気に酔ったって奴か。
タオルで手を拭きながら、近づく。
「一希、お前人気者だな。きっと将来は黙ってても女の子が寄ってくる魔性の男になるぜ」
我関せずと眠る我が子に笑いかける。
ちゃんと育て上げる。俺の持てる全てを注いで、一人前にする。
「ふわっ、史郎? 寝ちゃってたみたい。片付けなきゃ」
「終わった」
「やはは。ありがと。んー」
身体を解すように伸びをして、自分を挟んで眠る二人を見て、笑みを零して。
「長かったね。ここまで」
「あぁ」
「史郎。二人目、だよ」
「そうだな。一希がもう少し大きくなってからな」
「待ち切れるかなぁ」
愛おしさが伝わってくる手つきで、そっと一希の頭を撫でて。
「まっ、私まだ若いからいけるね!」
「志保らしいが、あと五年もすれば三十だぞ」
「んぐっ」
一希が三歳になったら考えよう。
「さぁ、結愛ちゃん。名付け親はあなたです」
「女の子の名前ですか。そうですね……」
顎に手を当て、眼を閉じて考える結愛を二人で見つめる。
「そんなに見ないでくださいよ……」
なんて言いながら結愛は考えるのを続行。
「うーむ、難しいですね。一生使う物ですから……いくら悩んでも悩み足りない」
「名前はね、子に託す願いみたいなものだからね。難しいよねぇ」
一希という名前を付けてくれた奏がしみじみと呟く。そういう割に奏はポンと出してくれた気がするけど。
「それなら本人に決めさせた方が良くないですか?」
「そういう文化の国もあるらしいねぇ。引っ越す?」
「やだよ。というわけで、結愛、頼んだ」
小さく笑って、結愛は今度こそ、真剣に悩み始めた。
「……望未……のぞみですね。三人目は、来華……そうですね、らいかで」
「なぜ三人目?」
「一つの希望。一つの未来。一つの華。どうでしょう? 何でしたら三人目は私が……」
「おいこら」
「ふふっ。結愛さんらしい」
「やはは。三人目か―。どっちが良いんだろ」
大人になっても。何年経っても笑い合える。
「一希、お兄ちゃんになったぞ。頑張れよ」
四歳になる息子は、小さく頷いた。俺に似たのか、本当に静かな子だ。
未来に繋ぐために、大人になっても相変わらず悩んで転んで間違えて。
それでもきっといつか、自分の明日を掴めるようになる。そう信じて。
笑って、「大丈夫だ」と言えるように。
志保√了




