6. 混乱★アボット伯爵家side
一方その頃。
アボット伯爵家は、混乱の渦中にあった。
「もう! 何ですの、怪盗シリルとかいう不遜な輩は!」
「落ち着きなさい、ドリス。淑女たるもの、いついかなる時も取り乱したりしてはならないと、普段から言っているでしょう?」
伯爵家の輪の中心にいるのは、怒りをあらわにする娘と、それをたしなめる母親。つやめく金髪にとび色の瞳をもつ、似たもの母娘だ。
「けれど、お母様は腹が立ちませんの? あの輩のせいで、デイヴィス子爵家から結婚支度金の返済と、慰謝料を請求されているのですわよ?」
「あらあらドリス、いけないわ。わたくしたちがまず一番に心配しなくてはならないのは、セレーナの身の安全でしてよ?」
「そうでしたわね、お母様。つい口が滑りましたわ」
セレーナの継母アマラと義妹ドリスは、そう言ってうふふ、おほほ、と笑う。それを見て、セレーナの実父であるアボット伯爵はため息をつく。義弟ライリーは、怖いくらいの無表情で、何かを考えている様子だった。
「わたくしたちの大切な義娘を攫うだなんて。なんとしても、セレーナと怪盗シリルとやらを見つけなくてはなりませんわ」
「ええ。返済期限はひと月……支度金はもう残っていないから、大切なお義姉様には、絶対にひと月以内に帰ってきていただかないと」
「わたくしも同意見よ。……ああ、誰かセレーナの行方を探しに行ってくれる者はいないかしら? そうしたら特別手当を出しますことよ?」
アマラがそう言って周囲を見回すと、一人の使用人がおずおずと手を挙げた。
「まあ、おまえ、行ってくれるの?」
「いえ……その前にお伺いしたいのですが、その特別手当、前借りでいただくことはできませんか?」
「なんですって?」
アマラがその使用人をひと睨みすると、「ひっ」と小さく悲鳴が上がり、挙がっていた手は引っ込んだ。
「特別手当の支給は、セレーナを連れ戻した者にだけ出すわ。当然、後払いよ。誰か行く者は? もちろん、いるわよね?」
しん、という静寂が室内に満ちる。ややあって、使用人たちはアイコンタクトを取り始め――、
「私が」
「……私も」
「自分も行きます」
想像以上にたくさんの手が挙がり、アマラは満足そうに頷いた。
早速使用人たちは、外へ出る準備のために退室し、荷造りにとりかかった。
彼らの荷物の中には、自分の全ての私物が入っているほか、なぜか伯爵家のギャラリーに飾られていた美術品や、高価な皿などが詰め込まれてゆく。
パンパンになった荷物を背負い、ひとり、またひとり。
怪盗シリルが飛んでいったという南の方角へ向かった者は、誰一人としていなかった。
*
もうこれ以上はアボット伯爵家の甘い汁を吸えなくなる。
それを察知した使用人たちが屋敷から出て行くのを、ライリーは部屋の中から、ただ眺めていた。
使用人たちに忠誠など皆無だというのは、ライリーにもわかりきっていた。
ライリーにとっては、アボット伯爵家の金が尽きることも、使用人が不足して屋敷の状態が保てなくなるであろうことも、何もかも最早どうでも良い。
大切にしていた小鳥が、雁字搦めの鳥籠から飛んでいってしまってから、世界は色を失った。
「本当なら……僕だったのに……僕が……貴女の……」
無表情のままぶつぶつと呟いているライリーの瞳は、夜の闇よりも深く昏い。
「……義姉さん。僕が……僕が、迎えに行くからね」
ライリーは剣をとり、マントを羽織ると、少ない荷物を持って厩舎へと足を向けた。
向かうのは、南の方角である。
*
「ああ……セレーナ。どうか無事であってくれ」
セレーナの父アボット伯爵は、娘と同じ翠の瞳をしきりに瞬かせながら、うろうろと自室を歩き回っていた。
愛する前妻の忘れ形見、たったひとりの実娘だ。気にならないわけがない。心配しないわけがない。
それは、以前からずっとそうだった——少なくとも、表面上は。
だが、アマラの実家であるゴーント侯爵家から、「何よりもアマラを尊重しろ。さもないと、共同で行っている公共事業を差し止める」と脅しをかけられていたアボット伯爵は、娘の窮状に、見て見ぬふりをすることしかできなかったのである。
自分の実家を頼れれば良かったのだが、前妻との結婚に反対していた両親や親類にセレーナを預けることなど出来ない。
前妻は訳あって身分を失った令嬢であったために、そちらの縁を頼ることも不可能だった。
「それに……、いや。わかっているのだ。セレーナは、セレーナだと……、それでも」
——誰よりも、この世界の何よりも大切な、たった一人の愛する妻。
セレーナは、彼女にとてもよく似ていた。セレーナの顔を見ると、アボット伯爵は、妻を失った痛みを鮮烈に思い出して、辛い気持ちになってしまう。
愛する妻の娘なのだから、愛さなくてはならない。
けれど……妻の身体が弱ってしまったのは、産後の肥立が悪かったせいなのだ。
もちろん、セレーナが悪いわけではない。頭では理解しているが、アボット伯爵は、どこか心の奥底に、娘を恨む気持ちがあった。
「私は、父親失格だ」
せめて。
離れに近づけない……いや、アマラを理由にセレーナを避けるようになった自分の代わりに、密かに彼女を助けてくれる者がいなくてはならない――そう思い、アマラが嫁いでくる前からセレーナと特に仲が良かった二人の使用人に、大切な娘を守ってくれと頭を下げたのだ。
二人はそもそも、伯爵家ではなくセレーナ自身に恩義を感じている身だ。彼らはセレーナを心から案じ、彼女に尽くし、よく働いてくれた。その甲斐あって、セレーナの笑顔も、徐々に戻りつつあった。
しかし、伯爵が視察のために屋敷を離れている隙に、ジーンは人買いの商人に売られてしまった。見目の良い少年だったから、高く売れると思ったのだろう。
もう一人の使用人ダブは、白い髪と赤い瞳という、他者から敬遠される色合いをもつ少女だったためか、人買いに売られることはなかった。だが結局、ダブも忽然と姿を消してしまい、いまだ行方がわかっていない。
ここ数年、彼女はたびたび大怪我をして、身体中に包帯を巻いていた。そのため、彼女がいなくなった時には、伯爵の頭を最悪な想像がよぎった。
「ああ……私が不甲斐ないばかりに。すまない、セレーナ。すまなかった」
謝っても、もう、取り返しがつかない。
セレーナは、アボット伯爵の手を離れてしまった。
「……領地はどうにか生きながらえさせてきたが。アボット伯爵家も、ここまでだな」
どのみち、アボット伯爵家本家唯一の正統な血筋であるセレーナが失われてしまった以上、この家の存続は難しい。
アマラはライリーを次期当主にと思っているようだが、それは本当ならセレーナとの結婚ありきのものだった。
——だが、ライリーは当主補佐としてはともかく、セレーナの伴侶として相応しいとはいえない。
それが、この数年でアボット伯爵の出した結論だった。
アマラはアボット伯爵との約束も忘れ、身分のない母親を持つセレーナを虐げ、目の敵にし、最終的には金に目が眩んでデイヴィス子爵家との婚姻を勝手に決めてしまった。
デイヴィス子爵の嫡男は女好きだというが、腹の中にどす黒いものを抱えているライリーよりはましだ。
セレーナとの間に子が出来たら、その子供をアボット伯爵家の養子にすれば良いだろうと算段をつけていた。
しかし。
今となっては、そんな算段も交渉も、最早何の意味もない。
「こうなったら、私の取る道は一つしか残されておらん。……最後に、伯爵としての責任を果たさねば」
アボット伯爵は、娘を失ってようやく、覚悟を決めた。
伯爵は、急いで旅支度を始めた。
――事前に用意していた書類と、アマラの目から隠していた貴金属をすべて、信頼する家令に託して。




