祈りみたいな矢
十四歳になった。等級はD、旅は相変わらず、パーティ名も「熊と花と矢」のまま変わらず——つまり、まだ増えていない。
そして相変わらずといえば、あの噂も、まだ続いていた。——教会から逃げた見習いシスターは、一年経った今も、捕まっていないらしい。
「逃げ上手ねえ、その子」と、宿場の酒場で誰かが笑う。
「教会ってのは、辞めますって言って辞められるところじゃねえのさ」と、誰かが声を落とす。
私はといえば、その噂を聞くたびに、なぜだか少しだけ安心するのだった。顔も名前も知らない誰かが、今日もまだ、捕まっていないことに。
*
その日、私たちは南の街道を歩いていた。
異変は、耳から来た。街道の先、緩い下りの向こうから——悲鳴。
「先行するわ」
母さんの姿が、掻き消えた。私と父さんも走る。坂を下り切って、視界が開けた。
行商の荷車が一台、道の脇に傾いている。ゴブリンが、七。緑の小鬼どもが、荷と人を囲んでいた。囲まれているのは行商のおじさんと、その女房と、幼い兄妹。
そして——その親子の前に、フードの少女が一人、両腕を広げて立っていた。
旅装は埃まみれで、外套の裾は擦り切れている。足は震えていた。膝が、今にも折れそうに笑っていた。誰が見ても分かる。あの子はもう、走れないほど疲れ切っている。
なのに、その足は、親子とゴブリンの間から、一歩も動かなかった。
「や、やめなさい……! この人たちは、関係ないでしょう……!」
声も震えていた。武器も持っていない。なのに引かない。ゴブリンのリーダー格が、嗤うように棍棒を振り上げた。
母さんはまだ遠い。父さんの盾も届かない。
でも、私の矢は、届く。
走りながらは射てない。だから、止まる。
世界でいちばん短い足踏みを踏んで、大地と、繋がる。
——世界から、音が引いていく。
悲鳴。ゴブリンの哄笑。自分の心臓。ぜんぶ潮のように引いて、あとには弓と、矢と、振り下ろされていく棍棒の、木目だけが残る。
会は、瞬き半分。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
——離れ。
弦音。
振り下ろされる途中の棍棒が、真横から射抜かれて、持ち主の手ごと後ろへ吹っ飛んだ。
二の矢、三の矢。少女に跳びかかろうとした二匹が、跳んだ姿勢のまま落ちる。そこへ母さんが追いつき、父さんの「どけえ!」が轟き、残りは数呼吸で終わった。旅の間、盗賊とゴブリンにだけは容赦がないのが、うちの家風である。
残心。三つ数えて、弓を下ろす。使った矢は、三本。
*
行商の親子は、腰は抜かしていたが、無傷だった。
そしてフードの少女は——親子の無事を確かめた途端、糸が切れたみたいに、ぺたん、とその場に座り込んだ。
「だ、大丈夫?」
駆け寄ると、フードの下から、掠れた声が返ってきた。
「……はい。……いえ、あの、足が。……安心したら、立ち方を忘れました……」
立ち方を忘れた人に、私は手を差し出した。細い手が、遠慮がちに掴む。引き起こした拍子に、フードが、はらりと落ちた。
亜麻色の髪が、昼の光に透けた。
翡翠色の目が、間近で、私を見上げていた。
「あ……」
「…………」
「あの、私」少女は、頬を上気させたまま、言った。「ちゃんと見えてたのは、最後だけ、なんですけど。……棍棒が目の前で弾け飛んで、振り向いたら、あなたがいたんです。矢はもう放ったあとなのに、まだ構えたまま、じっと、静かで。……放ち終わった人があんなに静かなの、初めて見ました。あの、変なこと言いますけど」
言葉を探して、両手をきゅっと胸の前で握って、それから言った。
「——あなたの矢、《《祈りみたい》》」
見られていたのは、的中じゃなくて——残心の方だった。
心臓が。
とく、と。
……この音を、私は知っている。二年前、夕陽の市場で、一度だけ聞いた音だ。
そして少女の方も、私の顔をまじまじと見て、翡翠色の目を、まん丸にした。
「…………あれ?」
「……あれ?」
「あなた、カルナの……! 荷馬車の、留め栓の……!」
「荷台の……! 綺麗なお辞儀の……!」
「「——あーーっ!!」」
街道の真ん中で、二人ぶんの叫びが重なった。行商の親子がびくっとした。ごめんなさい。
「覚えてて、くれたんですか」
「そっちこそ」
「忘れるわけないです! 私、あの日から、ずっと——」少女はそこで言葉を切って、みるみる赤くなって、両手をぱたぱた振った。「あっ、いえ、その、ずっとというのは、語弊が、あの」
「……う、うん。私も、その。何度か、思い出しては、いた」
「そう、ですか。……えへ、へ」
「……うん」
何なんだ、この時間は。二年経っても、妙に、くすぐったい。
気づけば少女は、胸の前で両手を組んでいた。あの日、通りの角で見たのと同じ——祈りの形に。
「あの、私、ノエルっていいます! あなたは——」
「リノ。……あのね、ノエル。ひとつ、聞きたいんだけど——」
言いかけた、そのとき。
《《ぐうぅぅぅぅ、と。》》
盛大な音が、街道に響き渡った。
ノエルは自分のお腹を見下ろし、私を見て、真っ赤なまま、消え入りそうな声で言った。
「……三日ぶんの音です……」
直後、うちの父さんが動いた。地面に荷を下ろし、鍋を出し、火を熾しながら、こう言ったのである。
「——嬢ちゃん。飯は、食ったか」
(第九話・了)
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです!
毎日二話更新の集中連載!




