二人目の娘
街道脇に、臨時の灰熊亭が開店した。
火を熾し、鍋を掛け、干し肉と根菜と香草。手際のいい巨漢の周りに、いい匂いの結界が張られていく。行商の親子は丁重にお礼を言って(そして娘を庇ってくれたノエルに、干し果物の袋を押しつけて)先の宿場へ発っていった。
で、残されたノエルはというと、湯気の立つ椀を前に、フリーズしていた。
「あの……これ、その……おいくら、ですか」
「取らねえよ!?」
「で、でも、お肉が入ってます。この量なら銅貨四枚、いえ、この香草は東方のものだから五枚は——」
「一目で原価を弾くな!? いいから食え!」
「……いただき、ます」
一口。
ノエルの動きが、止まった。翡翠色の目が、まん丸になって、それからじわ、と潤んだ。
「〜〜〜っ、おいしい……!」
あとは、早かった。三日ぶんの飢えと、灰熊の本気が、正面衝突した。一杯目は無言で消え、二杯目は「あの、おかわりって」と言い終わる前に父さんが注ぎ、三杯目のとき、ノエルは椀を両手で抱えたまま、湯気の向こうで、ぽろっと泣いた。
「……ごめんなさい。あったかいの、久しぶりで……」
父さんが、たぶんノエルより先に泣いた。うちの父はそういう生き物である。
*
腹が落ち着いたところで、母さんが静かに切り出した。
「さて。……話せる範囲で、いいわよ」
ノエルは椀を置いて、膝を揃えて、まっすぐに頭を下げた。
「——騙すみたいになる前に、言います。私、教会から逃げてきました。手配が回ってる、見習いシスターって、私のことです」
やっぱり、と思った。一年前からの噂。国中の支部に回った「保護願い」。顔も名前も知らない誰かに、いま、顔と名前がついた。
ノエルの話は、こうだった。
孤児で、教会の孤児院で育った。治癒の魔法だけ、なぜか誰よりできた。十歳で大人の骨折を治し、十二歳で流行り病の熱を村ごと引かせた。そうしたら、偉い人たちが来るようになった。「聖女の再来」と呼ばれるようになった。中央の大聖堂に迎える話が、本人のいないところで、どんどん進んだ。
「連れていかれる前にね、一度だけ、見学したんです。私が入るはずだった、祈りの塔。……綺麗なところでした。白くて、静かで、掃除が行き届いてて——《《窓が、なかった》》」
焚き火が、ぱち、と爆ぜた。
「祈りは、好きです。誰かを治すのも、好き。でも、窓のない場所で、会ったこともない人のためだけに祈って一生が終わるんだって思ったら、足が——勝手に、逃げてました」
それで、一年。手配を掻い潜り、拾い仕事で治癒を売り、食いつなぎながら、ここまで来た。三日前に路銀が尽きた。
「……以上です。ごちそうさまでした。それで、あの」
ノエルは荷物を引き寄せて、立ち上がろうとした。
「手配中の人間と一緒にいたら、皆さんにご迷惑が。お礼は、いつか必ず——」
「行くあては、あるの」
私の口が、勝手に動いていた。
ノエルの動きが止まる。翡翠の目が、泳ぐ。
「…………ないです」
「じゃあ、だめだ」
我ながら、取りつく島もない言い方だった。でも、譲る気がなかった。三日食べていない子が、それでも他人の子供の前から動かなかったのを、私はもう見てしまっている。ああいう足の持ち主を、あてもない街道に一人で放すなんて、だめだ。だめに決まっている。
「リノの言う通りだ!」父さんが、洟をすすりながら参戦した。「行くあてがないなら、うちに来い! 飯は俺が作る! 守りは俺が持つ! なあカグラ!」
「そうね」母さんは、あっさり頷いた。それから、ちら、と私を見て——ふ、と笑った。「あら、リノ」
「なに」
「手。——いつまで握ってるの」
見ると、立ち上がりかけたノエルを引き留めた私の手が、彼女の手首を、しっかり掴んだままだった。
「っ……!」
慌てて離す。ノエルも真っ赤になる。母さんだけが、実に楽しそうだった。この人は多分、この瞬間から楽しみ始めた。娘の初恋の観戦を。
「で、でも、皆さん、手配が」
「嬢ちゃん」父さんが、どんと胸を叩いた。「うちはA級パーティ『熊と花と矢』だ。教会だろうがなんだろうが、話くらいは聞いてやる。それにな——」
父さんは、湯気の残る鍋を見て、それから、当たり前みたいに言った。
「三杯食ったろう。うちの飯を三杯食ったら、もう家族だ。——今日からお前は、うちの《《二人目の娘》》だ」
(……あれ。そういえば母さんも、シチュー三杯で陥落したんじゃなかった?)
灰熊亭の三杯には、人の人生を変える魔力があるらしい。
「むす……」
ノエルが、固まった。
「ふたりめの、むすめ……」
「おう。一人目はそこのリノだ。がはは!」
孤児院育ちの元シスターは、「娘」という単語を、口の中で三回くらい転がして——それから、湯気のせいにできない感じに、くしゃっと顔を歪めた。慌ててうつむいて、目元を拭う。その両手が、いつの間にか、胸の前で祈りの形に組まれていく。
「あ、あの、ノエル。それ、祈ってる……?」
「〜〜〜っ、これはっ、違うんです、これはその、癖でして!」
「癖?」
「はい、あの、私、嬉しいことがあるとですね——」
説明しかけた、そのときだった。
「——南だ」
父さんの声が、低く短くなった。母さんはもう、立っている。
街道の南、昼の陽炎の向こうに、人影の列。白を基調にした、揃いの外套。旗印は、掲げていない。でも分かる。あれは——教会の色だ。
ノエルの顔から、血の気が引いた。
「……見つかっちゃった」
(第十話・了)
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