黒い囁き
東部廃鉱は、山の中腹に口を開けていた。
十年前に掘り尽くされて閉じた、銅の鉱山。件の山師は麓の村にいて、私たちを見るなり、忌々しげに山を指差した。
「蝙蝠だ。蝙蝠どもが、狂ってやがる」
再開拓の下見に入ったところ、蝙蝠の大群に襲われたのだという。数が尋常ではない。動きも尋常ではない。灯りに群がるどころか、狙って灯りを消しに来た。連れていた犬は坑道の口で腹を見せたまま動かなくなり、山師は道具一式を放り出して逃げ帰った。
「閉山して十年、あんな山じゃあなかったんだがなあ……」
依頼状の文面は「異変の調査」。中身はおおかた、住み着いた魔物の巣の掃除だろう——というのが、うちの見立てだった。父さんも母さんも、いつもの「仕事」の顔をしていた。
「坑道は暗い上に崩れやすい。リノ、中では二人から離れるな」
「はーい」
——このときの私たちは、まだ、何も知らなかったのだ。
*
坑道の入り口で、まず気づいたのは——静かすぎることだった。
山なのに、鳥の声がない。虫の音もない。風だけが、坑道の口からゆっくり吐き出されてくる。その風が、変に甘い匂いをさせていた。花の蜜を煮詰めて、どこかを焦がしたような。
「灯りは私が持つわ。リノは真ん中。あなたは殿」
「おう」
ランタンひとつぶんの光の輪が、私たちと一緒に坑道を進んでいく。枕木の腐った軌道、置き去りの鶴嘴、掘り残しの壁。深くなるほど、あの甘い匂いは濃くなった。
最初の異変は、蝙蝠だった。
坑道に蝙蝠がいるのは当たり前だ。当たり前じゃないのは、その数と——動きだった。天井を埋め尽くした黒い塊が、私たちが進むと同時に、一斉に、こちらへ雪崩れてきた。
「来るぞ!」
父さんの盾が、先頭の一群を鐘の音で弾き返す。母さんの拳が、二匹まとめて叩き落とす。私は矢を番えて——止まった。
暗い。
ランタンの光の外は、墨を流したような闇だ。羽音は四方八方から聞こえるのに、《《的が、見えない》》。
見えないものは、射てない。弓の、どうしようもない掟だった。
「母さん! 灯りを上に!」
「——上ね」
母さんがランタンを、真上に放り投げた。
光の輪が、天井まで一気に膨らむ。闇が剥がれて、一瞬——坑道の全部が、見えた。
一瞬あれば、十分。
——世界から、音が引いていく。
会。落ちてくるランタン。雪崩れる黒。その中で、群れ全体を引きずっている、先頭の一匹。
——離れ。
弦音一つで先頭が落ち、群れの雪崩が二つに割れる。割れた流れは私たちを避けて、坑道の奥へ、奥へと吸い込まれていった。……逃げた、のではない。あれは「呼び戻された」動きだった。
落ちてきたランタンを、母さんが片手で受け取る。
「……いい射」
「……どうも」
使った矢は、一本。心臓の鼓動は、三割増しだった。暗闇は、嫌いだ。
*
最奥の壁に、それは、あった。
黒曜石に似た、拳ほどの結晶。壁の岩に半分食い込むように埋まって、ランタンの光を——吸っていた。反射しない黒というものを、私はふたつの人生を通じて、初めて見た。
そして、両親の様子が、おかしかった。
父さんは盾の持ち手を、軋むほど握り締めていた。母さんは目を細めて、結晶を見たまま動かない。二人とも、《《何かを聞いている》》顔だった。
「——リノ。下がれ。それ以上、近づくな」
父さんの声が、聞いたことのない硬さになった。母さんが、囁くみたいに言った。
「あなた。これ、《《あのときの》》——」
「ああ。……同じだ」
あのとき? 二人にだけ通じる何かが、視線の間を走った。
「……父さん? 母さん?」
「————リノ」父さんの声が、掠れていた。「お前には、何か……聞こえるか」
「何が?」
「声だ」
耳を澄ませた。
坑道の滴の音。ランタンの油の爆ぜる音。三人ぶんの呼吸。
それだけだった。
「……別に。何も聞こえないけど?」
両親が、同時に私を見た。安堵と、それと同じ量の、別の何かを混ぜた目だった。
*
回収は、教会に委ねられた。
麓の村から早馬で三日、白い法衣の回収班がやってきた。彼らは鉛の箱と銀の鋏のような道具で、結晶に指一本触れずに壁から外し、箱に納めて、祈りの言葉で封をした。その手際は見事で——そして全員の目が、一度も結晶から離れなかった。畏れではない。あれは、怯えだった。
年かさの神官が、私たち一人一人に同じ質問をした。
「結晶に、触れましたか」
「いいえ」×三。
「……声を、聞きましたか」
父さんは正直に頷いた。「『その盾では、いつか守り切れん』——そう囁きやがった」
母さんも、頷いた。「私にも、まあ……似たようなことを」。中身は、言わなかった。
そして私の番。
「何も聞こえませんでした」
神官の羽根ペンが、止まった。
「……聞こえ、なかった?」
「はい」
「一度も? あの距離で? ……本当に、一度も?」
三回聞き返された。嘘をついたときより疑われるの、初めてだ。神官は私の顔をまじまじと見て、それから手元の帳面に、何かを長々と書き込んだ。私の名前の綴りを、確認してから。
「あの」私は聞いた。「あれは、結局、なんなんですか」
神官は帳面を閉じて、ひどく丁寧な、ひどく空っぽな微笑みを作った。
「知らない方がよろしい。——いえ」
去り際、彼は言い直した。
「……《《知られない方が、いい》》のです。あなた方のためにも」
*
その夜の灰熊亭は、いつもより薪が多かった。
誰が言い出したわけでもない。父さんが黙って薪を三本余計にくべて、母さんが黙って鍋を大きい方に替えて、私は黙って、二人の間に座った。火の粉が、高く高く舞った。
「なあ、リノ」
しばらくして、父さんが火を見たまま言った。
「——すまんかった」
「え?」
「ただの巣の掃除だと思ってた。あれがあると分かってたら、お前を連れては入らなかった」
「……あれが何か、知ってるの?」
「知らん。何なのかは、教会も教えちゃくれん。ただ——昔、一度だけ、見たことがある」
父さんはそこで言葉を探して、探して、結局見つからなかったらしい。母さんが、静かに引き取った。
「昔の同業者よ。ああいう黒い石に、囁かれた人がいたの。……いい冒険者だったわ。最後は——いい冒険者では、なくなった」
焚き火が、ぱち、と爆ぜた。それ以上は、二人とも言わなかった。言わないことで、輪郭だけが伝わってきた。
「だからな、リノ。あれを見たら、離れろ。拾うな。教会に渡せ」
「……うん」
「それとな。——聞こえなくて、よかった」
「うん」
「だが、もし、いつか聞こえる日が来ても」
父さんは、そこで一度言葉を切って、洟をすすった。早い。まだ何も言ってない。
「父さんと母さんが、隣にいる。それだけ覚えとけ」
「……何それ。順番おかしいよ、結論が先に泣いてる」
「泣いてない。煙が目に入った」
母さんが、ふ、と笑って、私の椀にシチューを注いだ。それから、火の向こうの闇を——坑道のある山の方角を、一度だけ見た。
「いいこと、リノ。あの声が聞こえても、聞こえなくても、やることは同じ。——欲しいものは、自分の手で取りに行きなさい。《《あれからは、何ももらわない》》」
短くて、切れ味のいい、いつもの母さんの声だった。
私はまだ知らない。この夜の言葉たちを、五年後の自分が、どれほど必要とするのかを。
(第六話・了)
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