表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/46

灰熊亭の夜

ミルテ村からの帰り道、二日目の野営。


日が傾く前から、父さんは上機嫌で鍋を出した。報酬に猪肉の一番いいところをもらったからである。岩塩を擦り込み、香草を揉み込み、じっくり火を回す。漂いはじめた匂いに、私と母さんの腹の虫が同時に鳴いた。


そして、匂いに釣られるのは家族だけではない。


「おおーい! 灰熊亭、今夜も開店かい!」


街道の向こうから、見覚えのある隊商が手を振ってきた。産婆のおばちゃんの隊商だ。私を取り上げてくれた、あの。


——「灰熊亭」というのは、うちの野営の通り名である。


灰熊のバッシュの野営飯は、そこらの宿より旨い。冒険者と隊商の間でそんな噂が広まって、いつからか、うちの焚き火には人が寄るようになった。決定打はおばちゃんで、三年前、手ぬぐいを縫って「灰熊亭」と染め抜いた暖簾(のれん)を父さんに贈った。以来、父さんは野営のたびに、槍立てに暖簾を掛ける。野営地に暖簾。世界でうちだけだと思う。


「今夜は猪だ! 寄ってけ寄ってけ! がはは!」


「よし、祝い酒だね!」


「おばちゃん、今日は何のお祝い?」


「猪が旨そうなお祝いさ!」


理由になっていない。なっていないが、この隊商は昔からこうなのだった。


*


猪の香草焼きは、暴力的に旨かった。


焚き火を囲んで、隊商の人たちが唸りながら食べる。父さんは得意げに焼き加減を語り、締めくくりは当然「秘訣は愛だ」だった。レシピを聞いた若い行商人が真顔でメモを取りかけて、ペンを止めていた。愛は計量できない。


酒が回ってくると、おばちゃんが膝を打った。


「そうだ。リノちゃん、あんた、聞いたことあるかい? この二人の馴れ初め」


「ない。……ないな、そういえば」


「あら、話してなかったかしら」


母さんが杯を置いて、ゆるりと語り始めた。


——二十年前。「拳聖」カグラは、独り旅の凄腕として有名で、それ以上に「求婚者を全員投げ飛ばす女」として有名だった。


「東方から来た小娘が生意気だ、って絡んでくる男と、一目惚れしたって言い寄ってくる男が、まあ多くて。区別するのも面倒だから、まとめて投げてたの」


「まとめて投げないで」


「そこに現れたのが、当時B級の、駆け出しの大盾使い」


合同依頼で組んだその大男は、依頼の後、性懲りもなく母さんに「嫁に来てくれ」と言ったらしい。母さんはいつも通り投げた。——立っていた。もう一度投げた。——まだ立っていた。三度目は本気で投げた。——砂埃の中で、盾を杖に、立っていた。


「投げても投げても、立ってるのよ。しまいには、この熊、なんて言ったと思う? 『腹が減ってるんじゃないか』って、鍋を出したの。こっちは求婚の返事の代わりに投げてるのよ? 失礼しちゃうわ」


「実際、減ってただろ」


「……減ってたのよ、悔しいことに」


で、そのとき出てきたのが猪のシチューだったのだそうだ。母さんは黙って三杯おかわりして、四杯目のとき「……まあ、胃袋だけは、合格」と言ったらしい。


止める盾と、崩す拳の夫婦は、馴れ初めからずっと「止める」と「崩す」だった。そして最後に落としたのは料理。うちの家訓「秘訣は愛だ」は、実績に裏打ちされていた。


*


夜が更けて、隊商の人たちが寝静まって、焚き火のそばには家族三人だけが残った。


私は明日のぶんの矢羽根を整えていた。指先で羽根を撫でて、ふと——夕陽の中で「綺麗、でした」と言った、あの声を思い出した。弓を綺麗と言った、亜麻色の。元気にしてるだろうか。名前くらい、聞いておけばよかった。


「あら。いい顔してるわね、リノ」


「……してない」


「ふふ」


顔には出してないはずなのに、なぜ分かるんだこの人は。


母さんは笑って、それから焚き火に薪をひとつ足して、なんでもない声で言った。


「それにしても、不思議ね。盾の父さんと、拳の母さんの娘が——リノの弓は、誰に似たのかしら」


手が、止まった。


答えなら、持っている。


板張りの道場の、冬の床の冷たさ。かけ替えたばかりの弦の匂い。『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』と言った、あの人の背中。畳の目、賞状の日焼け、コンビニの新作スイーツ、放課後の——十七年ぶん、まるごと。


ぜんぶ、この世界の誰とも、分かち合えない。


大好きなこの家族にさえ、話せない。話しても、届かない。私の九割は、焚き火の届かない、ずっと遠いところにある。


「……夢で会った人、かな」


声が、少しだけ掠れた。


母さんは私を見た。焚き火が、ぱち、と爆ぜた。何もかも見抜く目が、いつもより、やわらかかった。


そして母さんは、何も聞かなかった。


「——おかわりは?」


それだけ、だった。


鍋の底に残しておいたらしい猪のシチューが、私の椀に、湯気ごと注がれる。肉が、いちばん大きいのが入っていた。


……ずるいなあ、この家は。


聞かないでいてくれることが、どんな質問より、抱きしめられているみたいだった。


「……うん。大盛りで」


「もう注いだわよ」


夜の底で、家族三人ぶんの笑い声がした。私の九割は遠くにあるけれど、残りの一割——今ここで、シチューの湯気を浴びている一割は、間違いなく、世界でいちばん幸せだった。


*


翌朝、出発の支度をしていると、おばちゃんが「そういえば」と寄ってきた。


「あんたたち、東へ向かうんだろ? ……気をつけなよ。妙な噂があるんだ」


「妙な噂?」


「東の山の、閉じた廃鉱でね。獣が狂ってるんだと。再開拓の下見に入った山師が、道具も掘った鉱石もぜんぶ放り出して、逃げてきたらしい。……閉山して十年も経つのに、妙な話だろう?」


道具を捨てて、逃げる。命より装備が大事な山師が、だ。


「ちょうどいい——とは、言えないわね」と、母さんがギルドの依頼状をひらりと振った。カルナを発つとき、ニナさんから預かっていたやつだ。


宛名は「熊と花と矢」。内容は——《《東部廃鉱、異変の調査》》。


(第五話・了)

ここまで読んでくださりありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです!


毎日二話更新の集中連載!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ