祈りの一矢
抱きしめられた夜は、私の中に、留まれなかった。
渇望を糧とするものが、差し出す祈りに包まれて、居場所を失ったのだ。剥がれた夜は悲鳴を上げて私の体から溢れ出し、封印の扉の残骸へと逆流して——そこで、千年の本体と、混ざった。
尖塔の下、砕けた封印の間の跡に、《《それ》》は、立ち上がった。
形は、なかった。あえて言うなら、穴だった。世界に空いた、人の形の巨大な穴。見ているだけで、胸の内側を吸われる。あれは千年ぶんの「足りない」でできている。ガロの、オルドの、司祭の、オズウェルの、数え切れない誰かたちの、《《もっと》》の集積。
『【返せ】』
夜が、言った。
『【器を。渇望を。千年を。——返せ、返せ、返せ】』
「……ノエル。手、貸して」
私は、梓を握り直した。三日ぶりに、自分の手で。
「あれ、どうやって倒すの、って顔をしてるでしょ」
「か、顔に書いてありますか」
「書いてある。……倒さないんだよ、あれは」
リアムの写しの一節を、思い出す。封は、祈りをもって成り、祈りをもって解かれる。——なら、あれ自体も、同じはずだ。渇望の集積を斬っても砕いても、散って、また集まる。必要なのは、破壊じゃない。
「《《浄化》》。ぜんぶまとめて、抱きしめて、鎮める。さっき、ノエルが私にしてくれたみたいに。……ただし、あの大きさ相手に、届く形で」
「届く、形……」
「うん。——《《矢に、祈りを乗せる》》」
ノエルが、目を見開いた。
この世界の魔法は、感情で燃える。欲の乗った魔力は、無心の射とは、絶対に混ざらない。油と水だ。ずっと、そうだった。でも——たったひとつだけ、例外がある。
《《見返りを求めない祈り》》は、欲の形をしていない。
無心と祈りは、同じものの、別の形。……四年前、街道の夕陽の中で、この子は最初から、そう言っていたのだ。あなたの矢、祈りみたい、と。
「乗せられる? 私の射に、ノエルの光」
ノエルは、灼けた手のひらを、ぎゅ、と握って、開いた。
それから、いつもの、太陽の顔で笑った。
「——《《任せてください》》。四年間、あなたの矢だけ見てきた治し手ですよ」
*
夜が、押し寄せてくる。
世界を呑む速さで。ドルグさんたちの怒号が遠くに聞こえる。逃げろ、と言っている。逃げない。ここが、射場だ。
私は、射位に立った。
ノエルが、私の背中に、両手を添えた。肩甲骨の間。弓の形をした背中の、いちばん深いところ。祈りが、そこから流れ込んでくる。梓を伝い、矢に宿り、鏃の先で、小さな太陽みたいに灯る。
「行きます、リノ。——《《主の御名において。この矢に、あらんかぎりの光を》》」
——世界から、音が引いていく。
潮が引くように、順番に。囁きの群れ。崩れる王都。遠い怒号。悲しみ。復讐。三日ぶんの夜。最後に、リノという名前そのものが、砂に書いた文字みたいに消えて——
あとに残るのは、弓と、矢と、世界に空いた穴だけ。
足踏み。両親の墓標がまだない大地を、素足の裏で踏み分ける。
胴造り。背骨にもう一本、見えない矢を立てる。その矢に、父さんの背中がいる。
打起し、引分け——梓が、深くしなる。五十年の弓が、二つの人生ぶんの引き手に、静かに応える。弦が、冬の匂いをさせる。母さんの故郷の、冬の匂いだ。
会。
満月まで引き絞って、私は、待つ。狙わない。憎まない。あの穴は、敵じゃない。あれは千年ぶんの、行き場をなくした「欲しい」だ。ガロの飯。オルドの村。司祭の町。オズウェルの、たった一度の、指名。——誰も悪くなかった願いたちが、行き先を間違えて、迷子になって、あんな形になった。
だったら、届けるものは、ひとつだけだ。
呼吸が、薄くなる。穴が、近づいてくる。夜明けに残った月のように、白く——いや。夜そのものが、目の前まで、降りてくる。
師範の声がする。母さんの声がする。ふたつの世界の、もういない人たちの声は、いつも、会の中でだけ聞こえる。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
『——リノ。離れが、乱れてるわよ』
……うん。
もう、乱れてないよ。見てて。
——離れ。
それは私が放つのではない。満ちた瞬間、矢のほうが、私を置いていくのだ。
弦音が、鳴った。
高く、澄んで、長く尾を引く、正しい弦音。祈りを乗せた一矢は、白い尾を引いて、夜の只中へ——世界に空いた穴の、ど真ん中へ、吸い込まれるように、消えた。
*
爆発は、なかった。
光が、夜の内側から、静かに満ちていった。
朝が来るのと、同じ速度で。囁きの群れが、ひとつ、またひとつ、悲鳴をやめていく。悲鳴が、ため息に変わっていく。千年ぶんの「もっと」が、光に抱かれて、順番に、ほどけていく。
『【……ああ】』
最後に、夜が、言った。もう、群れの声じゃなかった。ひとつの、小さな、疲れた声だった。
『【——満ちるとは、こういう、ことか】』
夜が、明けた。
本物の朝日が、王都の屋根を、順番に照らしていった。黒い霧は、どこにもなかった。膝をついていた人たちが、順番に、顔を上げた。遠くで、誰かの歓声が上がった。それが波になって、街中に広がっていくのを、私たちは尖塔の上で、聞いた。
残心。
矢の飛んだ先に、心を置いたまま、私は、三つ数えて——数え終わる前に、横から抱きつかれて、二人まとめて、その場にへたり込んだ。
「〜〜〜っ、やりましたっ、やりました、リノ……!!」
「……うん。……うん」
使った矢は、一本。
ふたつの人生で、いちばん重くて、いちばん、まっすぐな一本だった。
*
瓦礫の下から、オズウェルが、掘り出された。
生きていた。黒い紋様は、跡形もなく消えていた。皺だらけの小さな老人は、朝日の下で、ぼんやりと空を見上げて、それから、傍らに立った私を見た。
「………………ああ」
老人は、泣いた。
「声が。……声が、しないのです。五十年、欲しかった声が、消えて。それなのに。それなのに、この……この胸の、静かなことと、いったら……」
私は、何も言わなかった。
言う資格のある言葉を、ひとつも、持っていなかったからだ。この老人を赦す資格も、裁く資格も、私にはない。あるとすれば——同じ夜に呑まれて、引き戻してもらった者として、ひとつだけ。
「……その静けさの中で、ちゃんと、数えて」
「……はい」
「あなたが奪ったものを、ぜんぶ。一生かけて」
「……はい。……はい……」
老人は、瓦礫の上で、いつまでも泣いていた。兵に連れられていくその小さな背中が見えなくなるまで、ノエルは黙って、祈りの形に手を組んでいた。誰のための祈りかは、聞かなかった。
(第四十四話・了)
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