告白
『触れるな』
囁きの群れが、悲鳴のように言った。
『器よ、その女を殺せ。殺せ。殺せ——』
《《私》》の腕が、震えながら持ち上がる。夜の刃が、鎌首をもたげる。ノエルは、それを見ても、半歩も引かなかった。引かずに——ふ、と視線を落とした。
《《私》》の腰の、矢筒に。
「……ああ」
ノエルが、息だけで、笑った。
「持って、いてくれたんですね」
矢筒の内側。革紐で結ばれたままの、小さなお守り。聖布の端切れの、銅貨三枚の、手作りの。黒い夜に呑まれた装備の中で、そこだけが——夜に、染まっていなかった。
「銅貨三枚のお守りが、千年の夜に勝ってるの、ちょっと痛快じゃないですか」
『黙れ』
「祝福も、百回を超えました。湯気はまだ出ます。慣れたら終わりな気がするって言ったの、覚えてますか。……あれ、続きがあるんです。慣れたら、《《次に進まなきゃいけない》》気がして、怖かったんです。ずっと」
『黙れ。黙れ』
「温泉の背中も、市場の飴の半分こも、海のべたべたも、ぜんぶ覚えてます。私のリスト、リノさんとの思い出で、余白がなくなっちゃったんですよ。……だから、新しい祈祷書を買わなきゃって、思ってたところで」
『黙れ黙れ黙れ黙れ——』
夜の刃が、振り下ろされ——
られなかった。腕が、止まっている。水の底の私が、両手でしがみついて、止めていた。ノエルの言葉のひとつひとつが、水の底まで、光の粒みたいに降ってくる。降ってくるたび、腕が、少しずつ、私のものに戻ってくる。
ノエルは、最後の一歩を、詰めた。
「それとね、リノさん。……カグラさんの、最後の言葉。ずっと考えてました。なんで、あの人が、あの瞬間に、《《技術の話》》をしたのか」
——リノ。離れが、乱れてるわよ。
「あれ、技術の話じゃ、ありません。あの人、ぜんぶ分かってたんです。娘がこれから、どんな穴を抱えるか。その穴に、何が入り込もうとするか。だから、《《最後に、合言葉を置いていった》》んです」
離れが乱れる。
欲が、乗っている。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』——師範の声と、母さんの声が、水の底で、重なった。
「乱れた離れは、あなたの射じゃない。夜に握られた弓は、あなたの弓じゃない。カグラさんは言ったんです。——《《いつも通りに、戻っておいで》》って。それから、もうひとつ。あなたのお母さんは、あの焚き火の夜、こうも言いました」
あれからは、何も、もらわない。
「返しましょう、リノさん。もらったもの、ぜんぶ。返して、それで——」
『————《《させると、思うか》》』
夜が、爆発した。
*
囁きではなかった。千年の底から、ヴァニタス自身の声が、初めて、直接ノエルを撃った。
『見よ』
夜が、景色を編んだ。崩れる大聖堂。砕ける盾。閉じる瓦礫。あの日の光景が、寸分違わず、二人の周りに再現される。
『これがこの器の見た最後だ。守れなかった。届かなかった。この痛みは真実だ。真実は消えぬ。穴は塞がらぬ。ならば、痛まぬ夜の底が慈悲であろう。女、お前に、この穴が埋められるか。死んだ親の代わりが、お前に務まるか』
「————務まりません」
ノエルは、幻の瓦礫の中で、即答した。
「バッシュさんの代わりも、カグラさんの代わりも、誰にも務まりません。あの人たちの席は、一生、空いたままです。《《空いたままで、いいんです》》。……私は、代わりになりに来たんじゃない」
ノエルは、両手を、伸ばした。
夜を纏ったままの《《私》》の頬を、両手で、包んだ。じゅ、と焼ける音がした。彼女の手のひらが、夜に灼かれる音だった。構わずに、包んだままで、ノエルは言った。
「リノさん。……いえ」
息を、吸って。
「——《《リノ》》。好きです。ずっと、ずっと、大好きでした。カルナの夕陽の日から、たぶん、ずっと。世界を救うとか、封印とか、正直、今はどうでもいい。《《私は、あなたが欲しい》》。あなたの光ってるところも、欠けてるところも、この穴も、この夜ごと——ぜんぶ、《《ぜんぶ私にください》》!」
それは。
夜とまったく同じ文法の、夜とは正反対の、渇望だった。
囁きの群れが、混乱に、渦を巻く。奪う「欲しい」しか知らない千年の夜は、差し出す「欲しい」を、処理できずに——
その隙に。
ノエルは、泣き笑いのまま、囁いた。
「教会流の祝福は、頬でした。……これは、《《ノエル流》》です」
唇に、やわらかいものが、ふれた。
*
——光が、流れ込んでくる。
祈りの光。見返りを求めない魔力。それが唇から、喉から、胸から、穴の底まで、まっすぐに落ちてきて——夜を、消さなかった。
消さずに、《《抱きしめた》》。
穴も、夜も、悲しみも、復讐も、消さずに、否定せずに、まるごと、包んだ。温かいものが、痛みの形のまま、痛みごと、抱かれている。ああ、これは。これは、あれだ。聞かないでいてくれた夜の、おかわりのシチューだ。何も問わずに撫でてくれた、月の縁側の手だ。
私の家族が、ずっと私にくれていたものと、同じ形をしている。
水の底が、明るくなる。
体の手綱が、指の先から、順番に、戻ってくる。夜は消えていない。穴も塞がっていない。でも、穴の縁に、ちゃんと、床がある。立てる場所が、ある。隣に、体温がある。
唇が、離れた。
私は——《《私》》じゃなく、私は——まばたきを、ひとつ、した。
目の前に、泣き腫らした翡翠色があった。手のひらを灼かれながら、それでも離さなかった、ばかな治し手の顔があった。
「…………ノエル」
自分の声だった。三日ぶりの、ちゃんと自分の、声だった。
「——ただいま」
(第四十三話・了)
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです!
毎日二話更新の集中連載!




