外れた
——離れ。
黒い矢が、放たれた。
会もない、呼吸もない、渇望だけの射。それでも軌道は完璧だった。距離二十メートル、遮蔽なし、無風。的は、両手を広げて動かない。外れる要素は、世界のどこにもなかった。
矢は。
ノエルの頬を掠めて——《《背後の瓦礫に、突き立った》》。
「…………」
『…………』
夜が、静まり返った。
囁きの群れが、ざわ、と揺れた。水の底の私も、揺れた。今のは。今のは、何だ。
『——逸れた?』
『ありえない。この器の矢は、外れない。外れたことがない』
《《私》》は、二の矢を番えた。今度は、囁きどもが直接、腕の照準を握った。渇望の力が、骨まで軌道を固定する。的は動かない。逃げない。目も、閉じない。翡翠色の目が、まっすぐに、矢の来る場所を見ている。
——離れ。
二の矢は、ノエルの足元の石畳を砕いた。
『逸れた』
『また、逸れた』
『なぜだ。この器の腕は完璧だ。目も、風読みも、完璧だ。ならば逸れる場所があるとすれば——』
囁きの群れが、初めて、探すように、器の内側を覗き込んだ。水の底を。私のいる場所を。
『【————貴様か】』
そうだよ。
水の底で、私は、笑った。
私だ。私が、曲げてる。
腕はお前たちのものでも、この射は、私のものだ。十七年と十七年、二つの人生をかけて練り上げた射法は、骨の髄まで、私のものだ。そしてその射は——《《この的だけは、射抜けないように、できてる》》。
外さないんじゃ、ない。
《《外す射を、しないだけ》》。
なら、この的に中てる射は、私の中の、どこを探しても——最初から、存在しないのだ。
『【小娘、貴様、器の分際で】』
三の矢は、番える手そのものが、震えて定まらなかった。囁きどもが腕を握るほど、指が言うことを聞かなくなる。夜と私が、一本の腕の中で、綱を引き合っていた。
その光景を、下から見上げて。
ノエルが、笑ったのだ。
「——ああ、やっぱり」
泣きながら、咲くみたいに、笑った。
「いるんですね、そこに。……知ってました。あなたの矢は、祈りみたいだって、最初に見つけたの、私ですから。《《祈りは、大切なものを射抜けません》》」
ノエルは、瓦礫に刺さった一の矢を、そっと引き抜いた。黒い夜を纏った矢は、彼女の手の中で、じゅ、と小さく鳴いて——鏃の先から、ほんの少しだけ、色が戻った。
それを胸に抱いて、彼女は、歩き出した。
尖塔の石段を、一段ずつ。
『来るな』
囁きが、霧の獣を放った。ノエルの光がそれを灼く。
『来るな。来るな』
《《私》》の腕が、勝手に弓を捨てて、夜の刃を生やした。水の底から、私は腕にしがみつく。動くな。動くな。お願いだから——腕は、振り上げられたまま、震えて、止まった。
一段。また、一段。
「リノさん。私、気づいたんです。あなたの『聞こえない』の意味」
ノエルの声が、近づいてくる。
「欠けてなかったからじゃ、ありません。あなたはずっと、欠けてました。何を、とは知りません。でも、初めて会った日から、あなたの静けさは——大きな何かを失くした人の、静けさでした。……それでも、あなたは埋めなかった。埋めずに、抱えたまま、笑ってた。《《欠けたまま、満ちてる人》》だった。だから、声が、入る隙間がなかった」
一段。また、一段。
「今のあなたには、大きな穴が空いてる。……当然です。あんな夜に、穴が空かない子だったら、私、好きになってません」
最後の一段を上がって。
ノエルは、夜を纏った《《私》》の、手を伸ばせば届く距離に、立った。
「穴は、塞がなくていいんです。……ただ、その穴に、夜のかわりに」
両手が、祈りの形に、組まれる。
「——《《私を、入れてください》》」
(第四十二話・了)
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