光、前へ
止める者は、多かった。
ドルグさんは「正気か」と言い、王国軍の隊長は「自殺行為だ」と言い、ニナさんは何も言わずに、長いことノエルの顔を見た。それから、深く息を吐いた。
「……止めても、行くんでしょう」
「はい」
「そういう足の子だって、リノちゃんが昔、言ってたわ」
ニナさんは、カウンターの下から地図を出して、崩れた大聖堂までの、瓦礫の少ない道筋を引いた。それが、彼女の送り出し方だった。
ドルグさんは、尖塔の見える大通りまで、影の獣を薙ぎ払って道を作った。それが、彼の送り出し方だった。
「嬢ちゃん。……連れ戻してくれ。説教はそれからだ」
「はい。二人まとめて、説教されに戻ります」
おばちゃんは、ノエルの手に、飴をひとつ握らせた。
「昔、リノちゃんとあんたが、市で半分こした飴があったろ。あれと同じやつさ。——《《半分は、あの子の分だよ》》」
それが、あの人の送り出し方だった。
*
大通りの先は、囁きの霧だった。
一歩、踏み込む。
『——欲しいだろう』
来た。声の群れ。千年ぶんの、渇望の呼び水。
『自由が欲しいだろう。籠のない空が』
「持ってます」
ノエルは、歩きながら、声に出して答えた。
『家族が欲しいだろう。捨てられない名前が』
「もらいました。二年前に。宴の夜に、自分で言いました」
『あの娘が、欲しいだろう』
足が、一瞬だけ、止まった。
霧が、その一瞬に殺到する。夜が耳元まで迫って、蜜みたいに甘い声で、畳みかける。
『欲しいだろう。あの黒髪も、あの静かな目も、あの声も。夜ごと思って、朝ごと祈って、それでもまだ、手を握るだけの臆病者。よこせ、その願い。育ててやる。叶えてやる。あの娘は今、空っぽだ。注ぎ込めば、お前の色に――』
「————あのですね」
ノエルの声が、変わった。
怒っていた。この子がこんなに静かに怒るのを、世界はまだ、あまり知らない。
「さっきから聞いてれば、勝手に人の胸の中を、泥足で。……ええ、そうですよ。《《欲しいです》》。リノさんが欲しい。隣が欲しい。この先の朝ごはんも、船の旅も、桜も、おばあちゃんになるまでの喧嘩も仲直りも、ぜんぶ、ぜんぶ欲しい!」
霧が、歓喜に、渦を巻く。
「でもそれは——《《あなたたちに出せるものじゃ、ありません》》」
渦が、止まった。
「あなたたちの『あげる』は、奪うことだって、私はもう四回も見ました。あなたたちは願いを叶えない。願いを《《食べる》》だけ。……私の願いは、私の足で取りに行きます。今から。この先で。だから」
ノエルは、胸の前で両手を組んだ。祈りの光が、霧を、円形に灼き払った。
「——《《どいて》》」
囁きの群れが、悲鳴を上げて割れた。
光の輪を纏って、ノエルは歩いた。瓦礫の谷を。影の獣の間を。夜の底を、たった独りで、まっすぐに。その歩みを、後方の冒険者たちは、生涯忘れなかったという。夜を割って進む、小さな、白い光の点。
——のちに王都の人々が「聖女」と呼んだのは、教会が叙そうとした聖女ではなく、この夜のこの背中のことだった。
*
尖塔の残骸の下に、ノエルは立った。
見上げた先、崩れた石積みの頂に、《《私》》がいた。
黒い霧を従え、黒い弓を提げて、空っぽの目で、世界を見下ろしている——それでも。
「…………ああ、よかった」
ノエルは、泣き笑いの顔で、言った。
「髪、ちゃんと結んでる。……そういうところ、リノさんのままです」
《《私》》が、ゆっくりと、弓を上げた。
矢を、番える。黒い鏃が、まっすぐに、ノエルの心臓を向いた。囁きの群れが、嗤う。水の底の私は、叫んだ。声にならない声で。やめろ。やめて。その的だけは。その的にだけは——
ノエルは、逃げなかった。
両手を広げて、一歩、前へ出た。
「約束、しましたよね。《《世界中、連れてってあげる》》って。——それ、取りに来ました」
(第四十一話・了)
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