王都動乱
王都の空に、夜が満ちた。
昼の鐘が鳴っているのに、空は墨を流した色になり、崩れた大聖堂の跡から、黒いものが、霧のように街へ這い出していく。霧に触れた者は、膝をつく。耳を押さえて、うずくまる。——囁きだ。千年ぶんの囁きが、堰を切ったのだ。
ギルドの王都支部は、その夜、大陸でいちばん忙しい建物になった。
「西区の避難、完了! 次、南!」
カウンターの上に立って怒鳴っているのは、ニナさんだった。気だるげな受付嬢の顔は、どこにもなかった。ギルド規約第三条——《《災害時、ギルドは全登録者に対し避難支援の義務を負う》》。規約を盾にも矛にも使える人は、規約を翼にも使えるのだった。
「B級以上は前線! 霧に呑まれた人を引っ張り出す! 二人一組、単独行動は厳禁! ——あの霧はね、《《独りの人間から食うわよ》》!」
前線では、ドルグさんが斧を振るっていた。
霧の中から湧く、影の獣ども。実体は薄いが、数が果てない。ドルグさんは十五年目の斧で影を薙ぎ払い、腰の抜けた老人を米俵みたいに担いで、吠えた。
「がっはっは!! 湿気た魔物どもが!! 嬢ちゃんとこの親父さんなら、盾一枚で全部止めてたぞ!!」
——その名を出すとき、ドルグさんの声が、一瞬だけ、震えた。震えたまま、また吠えて、斧を振るった。悼み方は、人の数だけある。あの人のは、あれなのだ。
街道には、おばちゃんの隊商がいた。
「乗んな!! 詰めれば あと五人はいける!! 婆さんも坊主も、遠慮すんじゃないよ!!」
荷を全部捨てた幌馬車が、避難民を満載して、何往復も街道を駆けた。護衛は、いない。おばちゃんは御者台で手綱を握り、こう言ったそうだ。「うちの馬車はね、《《世界一の弓手が産まれた馬車》》だよ。験がいいんだ」——と。
みんなが、戦っていた。
みんなが、守っていた。
——そして、その全部を頭上から睥睨するように、崩れた大聖堂の尖塔の残骸、その頂に。
《《私》》が、立っていた。
*
「……あれは、もう、リノちゃんじゃない」
ギルドの窓から尖塔を見上げて、誰かが言った。
黒い矢が、空を裂く。一射で、王国軍の投石機が三基、まとめて砕けた。二射目で、魔導士隊の防護結界が、紙みたいに破れた。射程も、威力も、連射も、人の弓の理を全部踏み外して——それでいて、あの構えの、あの立ち姿の、なんという——
「綺麗、なんだよなあ……」と、ドルグさんが呻いた。「あんなになっても、あの嬢ちゃんの射は、綺麗なんだよ……くそ、くそっ……!」
誰も、近づけなかった。
王国軍も、冒険者も、教会の残存兵も。黒い矢は、尖塔に近づく者を、正確に、無慈悲に、撃ち落とした。殺してはいない——まだ。武器を、鎧を、戦意だけを、外科手術みたいに射抜いていく。それが逆に、恐ろしかった。あの精度は、渇望の力じゃない。十七年の、修練のものだ。《《本人が、まだ中にいる》》証拠だった。
「誰か、届く奴はいないのか」
「声も矢も届かねえ。あの霧の囁きだって、あの嬢ちゃんには効かなかったんだろう? なら、外から入れるもんが何もねえ……」
——ひとつだけ、あります。
その声は、ギルドの喧騒の中で、静かに、けれどはっきりと通った。
振り向いた先に、ノエルが立っていた。
三日泣き腫らした目は、赤かった。でも、もう、泣いていなかった。旅装を整え、髪に白い矢羽根の飾りをつけ、胸の前で——両手を、祈りの形に組んでいた。
「囁きが効かないのは、リノさんの心が、閉じて満ちてたからです。今、あの子の心は、穴だらけです。だから夜が入った。……なら、《《入れるものが、もうひとつある》》はずなんです」
「嬢ちゃん、まさか」
「はい」
ノエルは、まっすぐに、尖塔を見上げた。
「——私が、行きます」
(第四十話・了)
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