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復讐の的

——ここから先を、私は、水の底から見ていた。


体は、私のものだ。歩いているのも、弓を握っているのも、私だ。でも、手綱が、遠い。自分という馬車の、荷台に乗せられているみたいだった。御者台には、夜が座っていた。


崩れた大聖堂の残骸を、《《私》》は、まっすぐに歩いていく。


瓦礫の谷の底、ひび割れた床の陣の中心に、それは、いた。


「【……おお。おお、来たか】」


器オズウェル。三日の間に、人の輪郭は、さらに薄くなっていた。黒い紋様は首まで這い、脈打つ封印の扉——亀裂は、もう、腕が通るほどに開いていた——から流れ出す夜を、浴び続けている。


「【娘。記録の娘。その身に流れ込んだものの音で、分かるぞ。お前——】」


《《私》》は、答えなかった。


代わりに、弓を引いた。


矢は、黒かった。矢筒の矢が、触れた端から夜を纏う。射線も、風も、距離も、もう計算しなくていい。狙いは、思うだけで矢に宿る。会もなく、離れもなく、ただ、憎しみの向く先へ——


弦音もなく、矢は消えて、器の右肩を、貫いていた。


「【ぐ、お……!?】」


二射目、左膝。三射目、右腕。器が防ごうと張った夜の帳を、《《私》》の矢は、当然のように通り抜けた。同じ夜だからだ。同じ器から流れ込んだ、同じ渇望だからだ。


「【な、ぜ……読めぬ、まだ、読めぬ……! 同じものを取り込んで、なぜ、お前の欲は輪郭を持たぬ……!】」


知らない。


知らないし、興味もない。《《私》》は歩きながら射た。四射、五射。人間だった頃のオズウェルなら、とっくに死んでいる。化け物になりかけているから、死ねずにいる。都合が良かった。まだ、終われては、困る。


「じじい」


《《私》》の声は、静かだった。自分で聞いても、ぞっとするくらい。


「返して」


六射目が、器の胸の夜を、大きく抉った。黒い体液の向こうに、初めて、老人の生身が覗いた。皺だらけの、痩せた胸。五十年、毎夜祈り続けた男の、生身。


「返して。私の父さんと、母さん。返して。返せないなら——《《千年かけて、後悔しろ》》」


七射目を、番えた。


そのとき。


「【————ひ】」


器の中から、悲鳴が漏れた。ヴァニタスの声ではなかった。オズウェルの、老人の、生身の声だった。


「【ひ、ぃ……助け……わたくしは、ただ……選ばれたかった、だけで】」


そして、それに応えるように——器を満たしていた夜が、《《ざわり、と動いた》》。


オズウェルの体から、黒い紋様が、剥がれ始めたのだ。蔦が枯れるように、するすると。剥がれた夜は宙で寄り集まり、脈打つ扉の亀裂と、そして——《《私》》の方へ、鎌首をもたげた。


『この器は、もういい』


囁きの群れが、揃って、言った。


『五十年の祈りは、しょせん、順番待ちの欲。底が浅い。だが、お前』


『十七年、どんな囁きも届かなかった、閉じて満ちた魂。それが今、生涯ただ一つの渇望で、開いている』


『——《《これほどの器が、あるか》》』


夜が、雪崩れ込んできた。


三日前の比ではなかった。世界中の影が、私という一点に向かって、流れ落ちてくる。水の底の私は、遠くで、自分の輪郭が塗り潰されていくのを見ていた。抗う気は——起きなかった。復讐は、果たしかけている。なのに、胸の穴は、一ミリも、塞がっていなかったのだ。


殺しても、戻らない。


分かってしまった。分かった瞬間、穴の底から、次の声がした。私の声で。私の声じゃない何かが。


『なら、いっそ』


『こんな世界、《《ぜんぶ、消えてしまえ》》』


抜け殻のオズウェルが、瓦礫の上に、ぼろ切れのように落ちた。まだ、息はあった。皺だらけの顔が、譫言のように繰り返していた。「選ばれなかった」「また、選ばれなかった」と。


《《私》》は、それを一瞥もしなかった。


もう、どうでもよかった。復讐の的は、消えた。的が消えた弓は——次の的を、探すだけだ。


封印の扉が、内側から、大きく軋んだ。


亀裂が、悲鳴を上げて、広がっていく。千年の封印は、鍵を待たずに、最後の脈動を始めていた。《《私》》という、これ以上ない器を得て。


——王都の空が、夜でもないのに、暗くなり始めた。


(第三十九話・了)

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