落矢
葬儀は、まだできていない。
王都は混乱の中にあった。大聖堂の崩落。行方不明の枢機卿。地下から漏れ出す「何か」の気配に、教会は箝口令を敷き、王国は兵を並べ、避難の列が街道を埋めた。
二人は、ギルドの霊安室に、並んで安置された。
ニナさんが、手続きの一切を引き受けてくれた。ドルグさんが、ずっと扉の外に立っていてくれた。おばちゃんの隊商が、王都に向かっているという。タエばあも、峠を降りたという。
みんな、優しかった。
優しさが、ぜんぶ、遠かった。
*
三日目の夜。
私は独り、霊安室にいた。ノエルは泣き疲れて、ニナさんの部屋で眠っている。眠る前に、私の手を握って、何度も言った。「一人にならないでください」「約束してください」。私は頷いた。頷いて——夜中に、抜け出した。
約束を破ったのは、生まれて初めてだった。
蝋燭の灯りの下で、二人の顔を見た。
父さん。母さん。
「…………なんで」
声が、出た。三日ぶりの声は、自分のものじゃないみたいに、掠れていた。
「なんで、笑ってたの。最後まで。なんで『いつも通り』なんて言ったの。なんで、私を先に逃がしたの。私の矢だけが通るなら、私が残るべきだった。私が、殿で——」
答えは、ない。
当たり前だ。答えてくれる人は、もう、いない。この世のどこにも。私の九割が前世の遠くにあった頃、残りの一割を世界一にしてくれた人たちは、もう——
「————返して」
ぽつり、と。
胸の穴の底から、それは、こぼれた。
「返してよ。うちの家族。……ヤマトに行くはずだった。桜を見るはずだった。船の予約だって、タエばあが。父さんの花見弁当も、母さんの里も、ぜんぶ、ぜんぶこれからだった。それを、あいつが。あの、じじいが。五十年祈った? 神が答えなかった? ——《《知るか》》」
指先が、冷たく、痺れていた。
「奪ったなら、償え。壊したなら、壊される。あいつを、あの化け物を、この手で——」
《《殺したい》》。
生まれて初めて、心の底から、そう思った。当てたい、と思ったことすらなかった私が。欲しがることを、手放し続けてきた私が。人生で最初の渇望を、血の匂いのするそれを、はっきりと、望んだ。
——その、瞬間だった。
『——聞こえた』
世界で、初めて。
《《声が、した》》。
蝋燭の炎が、揺れた。霊安室の影という影が、一斉に、こちらを向いた気がした。声は、ひとつじゃなかった。遠く、近く、囁きの群れが、崩れた大聖堂の方角から、糸のように伸びてくる。
『十七年。呼び続けた。届かなかった』
『欠けていない器。閉じた器。——ようやく、開いた』
『欲しいのだろう。復讐が』
分かっていた。これが、何なのか。ガロを壊し、オルドを壊し、司祭を壊し、じじいを化け物にした、あれだ。母さんの言いつけが、耳の奥にある。聞こえたら、その場で言うこと。あれからは、何ももらわない。欲しいものは、自分の手で——
自分の、手で?
「……私の手じゃ、届かなかった」
矢は当たった。当たって、届かなかった。父さんの完璧な盾も、母さんの完璧な拳も、届かなかった。なら。
『届く手を、やろう』
『外さない矢が、欲しいか』
蝋燭が、消えた。
暗闇の中で、私は、笑ったと思う。うまく、思い出せない。ただ、自分の声が、遠くで答えるのを聞いた。母さん、ごめん。ノエル、ごめん。約束は、ぜんぶ、あとで破られるためにあったみたいだ。
「————《《ちょうだい》》」
穴の空いた胸に、夜が、流れ込んできた。
温かかった。
それが、いちばん、赦せなかった。
(第三十八話・了)
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