盾と、花
「嫌だ」
私は、言った。弓を握ったまま、動かなかった。
「二人だけ置いてなんて、行かない。いつも通り、四人で——」
「リノ」
母さんの声は、崩れる天井の轟音の中で、不思議なくらい、よく通った。
「あなたの矢だけが、あれに読まれない。ノエルの光だけが、封を繕える。——《《この世界の勝ち筋は、あなたたち二人よ》》。私たちじゃない」
「だったら、なおさら四人で……!」
「四人でここに残れば、四人で死ぬわ。……ね、リノ。作戦を立てるとき、いつも言ってるでしょう」
母さんは、瓦礫を拳で砕きながら、こともなげに言った。
「《《言い出しっぺが、司令官》》。今回の言い出しっぺは、私。だから、これは指示よ」
「【逃がすと、思うか】」
器が、腕を振った。黒い衝撃が広間を薙ぎ——その全部を、父さんの大盾が、正面から受けた。
ごう、と、聞いたことのない音がした。鐘の音じゃなかった。盾の表面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る音だった。
「がっ、は……!」
「父さん!!」
「————《《来い》》」
父さんは、吐いた血を拭いもせず、笑った。
「化け物。俺の一撃は『守りたい』でできてるんだったな。……上等だ。なら、俺の《《盾》》も、同じもんでできてる。読めるもんなら、読んでみろ。読めたところで——《《止まると思うなよ》》」
二撃目が来た。盾の亀裂が深くなった。父さんは、半歩も引かなかった。
「ノエル!!」
父さんは、前を向いたまま、吠えた。
「うちの飯は旨かったか!!」
「〜〜〜っ、はいっ……!! 世界一、でしたっ……!!」
「そうかあ!! そりゃあ、よかった!!」
がはは、と父さんは笑った。いつもの、床が揺れるみたいな笑い方だった。
「リノ!!」
「……っ」
「お前は世界一の射手で——《《世界一の、俺の娘だ!!》》 産声から、ずっとだ!! 行け!!」
母さんの掌が、私とノエルの背中を、同時に、とん、と押した。あの、投げられても痛くない、着地の場所まで計算された、母さんの押し方だった。私たちの体は昇降路の入り口へ吹き飛んで、頭上で、支えの梁が砕ける音がした。
崩落が、始まる。
閉じていく瓦礫と粉塵の向こうで、最後に見えたのは——背中合わせの、二人だった。砕けかけた大盾と、構えた細腕。熊と、花。二十年、楽譜のいらない二重奏。
母さんが、こちらを見た。
千年の封印が軋む音と、崩れる大聖堂の轟音の、そのど真ん中で。母さんは、ふ、といつも通りに笑って、いつも通りの、シャキッとした声で言った。
「——リノ。《《離れが、乱れてるわよ》》」
それが。
最後だった。
瓦礫が、視界を、閉じた。
*
どうやって地上に出たのか、よく覚えていない。
気づいたら、夜明けの大聖堂前の広場にいた。ノエルが私の腕を掴んでいた。掴んだ手が、震えていた。私の腕も、震えていた。背後で、大聖堂の尖塔が、ゆっくりと傾いでいくのが、他人事みたいに見えた。
崩落は、地下だけで止まらなかった。千年の蓋は、蓋ごと、砕けたのだ。
警鐘が鳴っていた。人々が逃げ惑っていた。ニナさんの声がした気がする。ドルグさんが私たちを瓦礫から引き離した気がする。ぜんぶ、水の中の出来事みたいに、遠かった。
昼過ぎに、冒険者たちが、二人を運び出した。
並んで、寝かされていた。
父さんの手は、砕けた盾の持ち手を、まだ握っていた。膝は、最後まで、つかなかったのだと言う。立ったまま、瓦礫の中で、母さんを背にかばう形で——運び出した冒険者たちが、誰も父さんの指を持ち手から外せなくて、盾の柄ごと、持ってきたのだと言う。
母さんは、綺麗な顔をしていた。
眠っているみたいだった。今にも、あら、と目を開けて、「泣かないの」と言いそうだった。言って、ほしかった。
ノエルが、二人に取りすがって、声を上げて泣いていた。光が、彼女の両手から溢れて、溢れて、二人を包んで——包むだけだった。注いでも、注いでも、届かない。治せない穴が、あることを。届かない場所があることを。私たちはもう、とっくに、知っていた。
私は。
泣けなかった。
膝をついて、二人の顔を見て、それだけだった。胸の真ん中に、大きな、大きな穴が空いて、風が吹き抜けていくのが分かった。悲しみは、まだ来ない。悲しみが立つための床ごと、抜け落ちたみたいだった。
——世界から、音が引いていく。
弓を、構えてもいないのに。
(第三十七話・了)
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