封印の間(前編)
出頭の朝、大聖堂は、静かすぎた。
大陸最大の聖堂だ。本来なら巡礼と参拝者でごった返しているはずの大広間に、人影がない。「調査のため、本日は閉門しております」と、門番の神官は言った。……王都最大の聖堂を、丸一日、閉める。それが何を意味するか、考えないようにするのは難しかった。
「ようこそ。ようこそ、おいでくださいました」
大階段の上で、オズウェル枢機卿が、杖をついて待っていた。
祭りの日と同じ、柔和な笑顔。同じ、質素な佇まい。ただ、白い法衣の裾だけが——深く、折り返されていた。
「此度は、無理を申しました。王国の印まで使う形になり、心苦しゅうございましたが……事は、一刻を争いますのでな」
「異変とやらの説明を、先に伺っても?」と、母さん。
「無論。——歩きながら、お話しいたしましょう。《《下は、深うございます》》」
*
大聖堂の地下は、聖堂よりも古かった。
石段は螺旋に沈み、壁の聖句は時代ごとに文字の形を変え、深くなるほど、古い形になっていく。オズウェルは杖を突きながら、よどみなく語った。
「この大聖堂は、《《蓋》》なのですよ。七英雄の伝承は、ご存じかな。神話の御世、砕かれ封じられた大いなる災い——その封印の直上に、初代の聖堂は建てられた。以来千年、教会は祈りをもって、封を守り続けてまいりました」
「その封が、綻んでいる、と」
「ええ。三年ほど前から、封の脈動が観測されております。各地で『石』の目覚めが増えたのも、同じ頃。……あなた方は、三度もあれと相まみえたとか。ならばお分かりでしょう。あれが野に放たれれば、何が起きるか」
嘘は、ひとつもない——と思う。それが、いちばん怖かった。ガロの件も、オルドの件も、封印の綻びも、たぶん、ぜんぶ本当だ。本当のことだけを積み上げて、この老人は、私たちをここまで運んだ。
途中の詰め所で、白装束の一団とすれ違った。
顔の下半分を布で覆った、回収班の「着崩し」。あの夜、山道で見た装束。彼らはオズウェルに深く頭を垂れ、私たちには、目もくれなかった。ノエルの手が、私の袖を、きゅ、と掴んだ。
「……猊下。ひとつ、伺っても」と、私は言った。「回収班に、リアムという神官がいるはずです。ロシュの町で世話になりました。彼に挨拶をしたいのですが」
オズウェルの杖の音が、半拍、遅れた。
「リアム。……ああ、あの若いの。熱心な子でしてなあ。今は《《静修》》に入っております。祈りの行でしてな、しばらくは、誰にも会えませぬ」
「そうですか。残念です」
「ええ、ええ。残念です」
老人は、微笑んだまま、先へ進んだ。私は、袖の中で、ノエルの手を握り返した。——リアムは、たぶん、囚われている。「観察」に気づいて、私たちに漏らしたことが、ばれたのだ。
*
最下層は、広かった。
天井の高い円形の広間。壁一面に、千年ぶんの祈りの文字。床には巨大な陣が刻まれ、その中心に——扉が、あった。
扉、としか言いようのないものだった。岩でも金属でもない、白く滑らかな材質の、両開きの扉。取っ手はない。継ぎ目はない。ただ、表面に無数の手形が、祈りの形に重ねられて浮き彫りになっている。
そして、扉は——《《脈打っていた》》。
どく。……どく。心臓のように、ゆっくりと。脈のたびに、扉の中央の細い亀裂が、ほんのわずか、明滅する。
「これが、《《封印の間》》の扉です」
オズウェルの声が、広間に反響した。
「亀裂にお気づきかな。三年前は、髪の毛ほどでした。今は、指が入る。……あと半年で、腕が入るでしょう。一年で——開く」
老人は、振り返った。柔和な顔のまま。
「ノエル。あなたの光で、この亀裂を《《縫って》》いただきたい。祈りをもって成った封は、祈りをもってしか、繕えませぬ。教会の祈り手は千人おりますが、封に届く純度の祈りは、もう、誰にも……この五十年、誰にも」
そこで、老人の声が、ほんの一瞬、揺れた。
「……ええ。誰にも、灯せなんだ。——あなた以外には」
ノエルは、扉を見上げた。脈打つ亀裂を。千年の手形を。それから、私を見て、父さんと母さんを見て、頷いた。
「やります。そのために、来ました」
「おお……おお! ありがたい!」
オズウェルが両手を広げた、そのとき。
私は見た。老人の袖が持ち上がった一瞬、折り返された法衣の裾の内側——黒い染みが、《《脈打つ亀裂と、同じ拍子で明滅した》》のを。
「ノエル、待っ——」
言い終わるより早く、広間の四方の通路から、白装束が、音もなく雪崩れ込んできた。
(第三十五話・了)
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