間章・黒い染み
近頃、妙なことがあります。
孤児院の子らの顔が、思い出せないのです。
五十年、わたくしは訪れた先の子供の名を、ひとりも忘れたことがなかった。名を覚えることは、祈りの第一歩ですから。それが近頃、名簿を見ても、顔が浮かばない。浮かぶのは、名の横の——寄進額の数字ばかり。
疲れているのでしょう。研究が、大詰めですから。
*
報告が参りました。北の山道の件、《《失敗》》とのこと。
六名のうち五名が制圧され、装具(あれをそう呼んでおります)は回収されず。あの一家——「熊と花と矢と光」は、健在。
……ふ、ふふ。よい。よいのです。想定の内。むしろ、実りは多かった。
第一に、あの娘の光は、装具を《《直接殺した》》。素晴らしい。純度は予想を上回る。封印の間の「調べ」には、やはりあの光でなくてはならぬ。
第二に、記録の娘——リノ。報告によれば、彼女の矢は、装具の位置を正確に射抜いたと。声の聞こえぬ娘が、声の宿る場所だけを的確に射る。なんと、興味深い。神が沈黙する者に、別の耳をお与えになったのか。……それとも。
それとも、あの娘は、《《欠けていない》》のか。
ありえませぬ。人は皆、欠けた器。欠けているから、祈るのです。欠けていない人間など、それは、それはもう——ずるい、ではありませぬか。
……おお、いけない。いけない。今のは、祈りに変えましょう。娘の健やかなることを。ええ、祈りました。今、祈りましたとも。
*
力ずくは、下策でした。反省しております。
あの一家は、強い。ならば、来ていただけばよいのです。《《正式に。丁重に。断れない形で》》。
政庁への根回しは済んでおります。王国は、教会に貸しがある。国境の魔物が増えておりますからな——ええ、増えておりますとも。各地の石が騒げば、魔は活気づく。因果なことです。実に、因果なことです。
文面は、こういたしましょう。
『封印の間に異変あり。浄化の力を持つ者の協力を、王国および教会の名において要請する』
嘘は、ひとつも書いておりませぬ。異変は、ある。ありますとも。三年前から、この耳の奥で、毎夜、脈を打っております。
……近頃、白衣の裾に、染みを見つけました。
黒い、染みです。洗っても、落ちませぬ。仕立て屋に出しても、落ちませぬ。仕方なく、裾を折って隠しております。誰にも、見せられませぬ。あれは、その、なんと申しますか——わたくしの、順番の、印なのですから。
五十年、待ちました。
もうすぐです。もうすぐ、天の指が、わたくしを指す。あの娘の光が封を開け、わたくしが「調べ」を修め、教会は救われ、世界は正され、そしてわたくしは——
《《選ばれる》》。
ああ。今夜も、耳の奥が、あたたかい。
祈りましょう。娘たちの、旅路のために。どうか、無事に。どうか、健やかに。どうか——《《一人も欠けずに、わたくしの元へ》》。
(第三十二話・了)
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