弓?
あの川辺の秋から、五年。
道具箱の底で眠っていた狩弓は、うちの食料調達の主力装備になった。兎、山鳥、たまに鹿。夕飯の獲物は、だいたい私の矢が獲ってくる。
おかげで、父さんが獲物を走って追いかけて殴る生活は終わった。
「静かになったなあ、うちの狩り」
「今までがうるさすぎたんだよ」
なにせ以前は、森に「待てえ!」という怒号と地響きが轟いていたのだ。獲物より先にきのこ採りの人が逃げた。
そして評判というものは、本人より足が速い。立ち寄る街のギルドで、最近こんな噂を聞くようになった。——「熊と花」のとこの娘は、飛ぶ鳥の目を矢で抜くらしい。
抜きません。目を抜いたら売り物にならないでしょう。狙うのは首の付け根です。
……という訂正が、多分いちばん怖いということに、私は最近気づいた。
*
十二歳の誕生日の朝は、交易都市カルナの宿で迎えた。
「リノ! 誕生日おめでとう! そして登録日おめでとう!」
王国の規定で、冒険者登録は十二歳から。つまり今日は、私が正式に「熊と花」の一員になる日でもある。テーブルの上には父さん特製の祝いスープと、細長い包み。
開けると、新しい短弓だった。黒檀の握り、魔物の腱の弦。使い込まれた狩弓とは別物の、本物の得物。
「街の工房で、いちばんいいやつだ! 店主は『娘さんに弓ですかい?』って笑ったがな! がはは!」
「その店主、あとで青くなるやつだ」
母さんは頬杖をついて、包みの紐を指先で弄びながら、のんびり言った。
「本当はね、ヤマトの職人が張った弓が、王都に一張りあるのだけど」
「ヤマトの……弓?」
「ふふ。それはもう少し、大きくなってから」
聞き流せない情報を置いていくの、やめてほしい。母さんの故郷の弓。それはつまり、あの「文法」の国の弓ということで——気になって夜しか眠れない。
*
カルナの冒険者ギルドは、昼から酒場を兼ねていた。
むわっとくる麦酒と革の匂い。屈強な冒険者たち。壁一面の依頼書。受付には、赤毛をひっつめた気だるげなお姉さんがいて、胸の名札に「ニナ」とあった。
「登録ね。はい、これに記入して。……あら、『熊と花』の?」
「娘です。今日から入ります」
「はいはい、あの噂の。名前、年齢、それから主武器——」
名前、リノ。年齢、十二。主武器、弓。
ペンを置いた瞬間、背後から羊皮紙を覗き込んでいた酔っ払いが、吹き出した。
「弓だってよ!」
来た。
「おいおい嬢ちゃん、考え直せ! 弓で食ってる冒険者なんざ、俺ぁ十五年やってて一人も見たことねえぞ!」
「昇級試験は討伐実績だぞ! 弓一本でどうやって等級を上げるんだよ!」
「だいたい、なんで両方すっ飛ばして弓なんだ! 盾と拳なら、世界最高の師匠が隣に二人もいるだろうが!」
「魔法にしとけ魔法に! なんなら俺の知り合いの魔導師を紹介してやらぁ!」
ギルド中がどっと笑った。なるほど、これが神様の言っていた「些か不遇」の本場か。うちの道具箱の底とは規模が違う。
ちなみに父さんは今、隊商のおばちゃんに頼まれた買い出しで席を外している。いなくてよかった。父さんは多分、野次の中身に気づくより先に、泣きながら怒りだす。
で、当の私はというと——腹は、立たなかった。
だって、よく聞けばこれは、罵倒の皮を被った「心配」なのだ。食っていけるのか。昇級できるのか。師匠の当てはあるのか。——酒場のおじさんたちは、今日会ったばかりの十二歳の将来を、口の悪さ全開で案じてくれていた。不器用にもほどがある。
母さんが頬杖のまま、ゆっくりとこちらを向いた。
「あら。怒らないのね」
「……母さんも、気づいてるくせに」
「ふふ。優しい野次よね、あれ」
「うん。だから、ちゃんと返事はしたいなと思う。——でも、的は、口では射抜けないから」
「——いい構えね」
構え、ときたか。……やっぱりこの人、弓の呼吸を知っている気がする。
そして的というものは、正しく構えて待っていれば、向こうから近づいてくるものだ。
——だからって、こんなに早く、こんな形で来なくてもいいと思う。
*
外の通りで、悲鳴が上がった。
がらがらと石畳を噛む車輪の音。嘶き。誰かの怒鳴り声——
「暴走だ!! 荷馬車が!! 誰か止めろお!!」
ギルドの開いた扉の向こうを、二頭立ての荷馬車が突っ込んでいくのが見えた。御者台は空。荷台の縁に、小さな女の子がひとり、しがみついている。そして通りの先は——市場の人混みだ。
冒険者たちが弾かれたように飛び出していく。あの斧の大男も「どけどけぇ!!」と走る。でも、追いつけない。人の足は、馬より遅い。
母さんは、もう動いていた。
窓から通りへ滑り出て——暴走する馬車を、追わない。馬車よりも速く、その行き着く《《先》》へ走る。そして市場の人混みと馬車の間、通りのど真ん中に、すっと立った。
あそこが、最後の防衛線だ。誰も馬車を止められなかったら、母さんはあの細腕で、正面から受け止める気でいる。
そして母さんは、走る間、一度もこっちを振り返らなかった。
見なくても分かっている、ということだ。——自分の手前で馬車を止める者がいると。それが、娘だと。
私は扉を抜けて通りに出た。片膝をつく。矢を番える。
考える。馬を射る? 違う。馬は被害者だ。それに二頭を止めても、荷台は勢いのまま滑っていく。狙うべきは——馬と車体を繋いでいる、轅の《《留め栓》》。あの拳ほどの栓が抜ければ、馬と荷台は泣き別れ。引く力を失った荷台は、ただの重い箱になる。重い箱なら。
「そこの斧の人!! 切り離します!! 荷台をお願い!!」
「なっ——おうよ!!」
即答だった。初対面の十二歳の指示に、即答。……この人、いい冒険者だ。
——世界から、音が引いていく。
悲鳴。蹄の音。車輪の軋み。ぜんぶ潮のように引いて、あとには弓と、矢と、跳ねて暴れる、拳ひとつぶんの留め栓だけが残る。
的は暴れている。けれど、跳ねる的には律動がある。車輪が石畳の継ぎ目を叩く、その拍子。継ぎ目、継ぎ目——次。
会、は一瞬。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
——離れ。
弦音。
留め栓が、弾け飛んだ。
軛を失った二頭は空の轅ごと前へ抜け、荷台は失速して蛇行し——横から追いついた斧の大男が車体の縁を掴み、踵で石畳を削りながら、力任せにねじ伏せた。荷台の女の子は、揺れで尻餅をついただけ。
そして自由になった馬たちはそのまま大通りを駆けていって——向こうから歩いてきた、買い出し袋を抱えた大男の両脇に、なぜかおとなしく収まった。
「ん? どうした、お前ら」
父さんだった。買い出し帰りに、暴走馬二頭を両脇でよしよしして受け止める男。……馬は賢い。世界でいちばん安全な場所を、ちゃんと知っている。
*
市場は拍手と歓声で、ギルドは静まり返っていた。
騒ぎが少し落ち着いたころ、荷台にいた女の子が、こちらへ歩いてきた。
乱れた裾を直し、背筋を伸ばして、それから、綺麗なお辞儀をひとつ。
「あの……! さっきは、助けていただいて、ありがとうございました」
顔を上げた拍子に、亜麻色の髪が夕陽に透けた。翡翠色の目が、まっすぐに私を見て——それから、ふい、と睫毛ごと伏せられた。頬が赤いのは、怖かった名残だろうか。それとも。
とく、と。
心臓が、ひとつ、変な音を立てた。
……なんだ、今の。会の中でも乱れない心臓が、お辞儀ひとつで拍子を変えた。解せない。
「……ううん。怪我がなくて、よかった」
我ながら、声が半音上ずった。なんで。
「あの、私、荷台から見えたんです。あなたが、弓を構えるところ」女の子は胸の前で、両手をきゅっと握った。「その……すごく——《《綺麗》》、でした」
弓を「すごい」でも「当たった」でもなく、「綺麗」と言った人は、ふたつの世界を通じて、たぶん初めてだった。
「……ありがとう。それを言われたの、初めて」
「そ、そうですか。……えへ、へ」
女の子がはにかんで、私もたぶん変な顔で笑って、それきり二人とも次の言葉が見つからなくて、そのくせ、どちらの足も動かなかった。何なんだ、この時間は。妙に、くすぐったい。
「——おおい! 出るよー!」
揃いの外套を着た旅の一団から、呼ぶ声がした。女の子は「はいっ、今!」と返事をして、私にもう一度お辞儀をして、駆けていって——三歩ごとに振り返っては、小さく手を振った。そして通りの角で最後に立ち止まると、胸の前で両手をきゅっと組んで、こちらへ深く、頭を下げた。あれは——祈りの形、だろうか。手を振り返すのはなんだか違う気がして、私はつられて、頭を下げ返した。
そしてギルドの中では、さっきまで「考え直せ」と騒いでいたおじさんたちが、綺麗に手のひらを返して「見たか今の一射!」「俺は最初から見込んでたぜ!」と誇らしげに騒いでいた。現金にもほどがある。……でも、あの野次の中身を思えば、悪い気はしなかった。
そんな中、斧の大男だけが、まっすぐ私のところへ来て——頭を下げた。
「嬢ちゃん。さっきは笑って悪かった。……あの留め栓、狙って抜いたのか」
「はい。あそこしか、誰も傷つかない的がなかったので」
大男はしばらく天井を仰いで、それから、しみじみと言った。
「弓、すげえな」
「はい。《《弓は、すごいんです》》」
私が言いたかったのは、最初からそれだけである。
大男——ドルグさん(B級、斧使い十五年目)は、その日の私の登録手続きに、なぜか保護者面で最後まで付き添った。「荷台を止めたのは俺」と自慢しつつ、「指示は嬢ちゃん」と律儀に付け足すあたり、現金だが、いい人である。
人混みの前から戻ってきた母さんは、すれ違いざま、私の頭をひとつ撫でていった。
「いい判断。——最後の壁は、暇で済んだわね」
そして馬を厩に返してきた父さんは、事の次第を聞くと、腕を組んで、口の端だけで、にやりと笑った。
「——当然だろう。うちの娘だぞ」
低くて、静かで、ちょっと格好いい声だった。格好いいの、だが。
「……父さん、泣いてない?」
「泣いてない。埃が入っただけだ」
目尻、光ってるんだよなあ。
なおその三分後、こらえきれなくなった父さんはギルド中に酒を振る舞おうとして、母さんに財布を没収された。格好よさの賞味期限、三分であった。
*
「はい、登録完了。F級冒険者、リノ。所属は『熊と花』——」
ニナさんがタグを差し出しかけたところで、父さんが割り込んだ。
「待ってくれ! パーティ名を変更する!」
「は?」
「今日からうちは——『《《熊と花と矢》》』だ!!」
ニナさんの目が、すっと細くなった。
「……パーティ名の変更、手数料が銀貨三枚かかるけど」
「払う!!」
「はあ。……『熊と花と矢』、ね。この調子で、この先もっと増えたらどうするのよ」
「増えたら足す!!」
「増えるたびに台帳を書き直すのは私なの!!」
がはは、と笑う父と、ため息をつく受付嬢と、頬杖のまま笑っている母。私は真新しいタグを握って、その騒ぎを眺めていた。
熊と、花と、矢。
……悪くない。悪くないけど、父さん。銀貨三枚あったら宿がひと晩いいところに泊まれたよ。
帰り際、ニナさんが呼び止めて、にっと笑った。
「ねえ、リノちゃん」
「はい?」
「あなた、いい冒険者になるわよ。——この仕事を長くやってると、それくらいは分かるの」
(第三話・了/第一章・了)
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