熊と花の娘
弓削玲乃、十七歳(自己申告)。現在の肩書、冒険者夫婦の娘・リノ。年齢、零歳。
転生ものの定番として、赤ん坊期は暇との戦いだと思っていた。
甘かった。うちに限っては、暇が存在しなかった。
なにしろ家がない。父さんと母さんは拠点を持たない旅暮らしの冒険者で、寝床は幌馬車か野営のテント。私は毎朝違う景色で目を覚まし、焚き火の爆ぜる音を子守唄に眠った。あやし係は日替わりで、護衛依頼中の隊商のおばちゃんだったり、ギルドの受付嬢だったり、一度など討伐対象を見失って落ち込む新人冒険者だったりした。何その託児所。
言葉も早めに覚えた。周囲の会話が、教材として充実しすぎていたのだ。
ちなみに、私の記念すべき最初の言葉。「ぱぱ」を待ち構えて号泣スタンバイしていた父さんと、「まんま」に賭けていた産婆のおばちゃん(あれ以来、隊商ごと家族ぐるみの付き合いである)の前で、私が発した一言は——
「……めっ」
母さんが狼を裏拳で沈めるときのあれだった。
父さんは「ぱぱじゃなかった」と号泣し、母さんは「あら、英才教育の成果ね」と笑い転げた。騒ぎを締めたのは、おばちゃんの「祝い酒だね!」だった。この隊商、何かというと祝い酒である。
*
歩けるようになると、教育が始まった。
といっても、机はない。うちの教育はぜんぶ、遊びの顔をしてやってくる。
「リノ、この草とこの草、どっちが食べられるでしょうか」
「こっち」
「ぶっぶー。そっちは、お腹を三日壊すわよ」
「三日!?」
母さんの野草あてクイズ。父さんの「罠はどーこだ」(正解の位置に飴が埋めてある)。魔物の足音を数える遊び、風上と風下の鬼ごっこ。おかげで私は、寝袋の畳み方より先に、締め付け罠の避け方を覚えた。五歳児の履歴書としてどうなんだ、それは。
父さんの料理の味見係も、私の大事な仕事だった。
意外——と言っては失礼だけど、あの巨体で父さんは、野営料理の達人なのである。鍋を振る大盾使い。エプロン姿の灰熊。街の食堂より父さんのシチューのほうが旨いという評判は、冒険者界隈ではそこそこ有名らしい。
「秘訣はなあ、リノ。愛だ」
「レシピを聞いたんだけど」
「愛と、あとは香草の入れどきだな! がはは!」
ちなみにパーティ名「熊と花」の名付け親は父さんで、熊が自分、花が母さんとのこと。母さんはこの話になると決まって、おっとり首を傾げる。
「あら。私が熊のほうかもしれないわよ?」
裏拳で狼を沈める花か、シチューの香草にこだわる熊か。……どっちもあり得るのが、うちの両親であった。
そして体術は、母さんの担当だった。
「リノ、こっちにおいで。——はい、今の、なんで転んだか分かる?」
「わかんない」
「重心が、先に転んでいたのよ」
拳聖・カグラの英才教育は、投げられて学ぶ方式だった。畳——じゃなくて草地の上を、私は五歳にしてころころ転がされた。理不尽かというと、そうでもない。母さんの投げは不思議と痛くないのだ。地面に着く瞬間、ちゃんと痛くない角度に「置かれて」いる。
そして転がされながら、私は内心で唸っていた。
この人の足運び、綺麗すぎる。
送り足。開き足。腰から動いて、上体がぶれない。前世の道場で、口を酸っぱくして教わったあれだ。前世から世界ひとつぶん離れた場所で、母さんの体は当たり前みたいに「あの文法」で動いている。母さんの故郷——東方の島国ヤマトには、武と礼の文化があるらしい。
いつか、聞いてみたいと思った。その国の弓のことを。
*
七歳の秋、川辺の野営地で、私は弓を見つけた。
荷馬車の道具箱の底。予備の縄と鍋敷きの下から出てきたのは、使い込まれた狩猟用の短弓だった。
「父さん、これ」
「おう、それか。獲物用の弓だ。……白状するとな、リノ。父さん、弓はからっきしだ」
聞けば、旅の食料調達用にと買ったはいいものの、父さんが射ると矢はあさっての方へ飛び、結局いつも獲物を走って追いかけて殴るのだという。狩りの意味とは。母さんは母さんで「石を投げたほうが早いのよねえ」派で、つまりこの短弓は、うちのパーティでいちばん出番のない道具だった。
……こんなところにも、不遇な弓がいた。
「触っていい?」
「おう。弦が古いから、気をつけてな」
弦を外して、張り直す。道具箱の蝋を、薄く引く。——手が、覚えていた。矢筒には、獲物用の細い矢が五本。的は、対岸に転がる流木の節。距離は、目測で十五メートル。
古びた道具だ。前世の道場の、手入れされた竹弓とは比べものにもならない。
それでも——構えた瞬間に、わかった。
世界から、音が引いていく。
川のせせらぎ。焚き火の爆ぜる音。鍋の煮える音。七年ぶん聞き溜めた、旅の音のぜんぶが、潮のように引いていって——あとには、弓と、矢と、的だけが残った。
ああ。
ここも、射場だ。
足踏み。川辺の砂利を、素足の裏が踏み分ける。胴造り。七歳の小さな背骨に、見えない矢を一本立てる。打起し、引分け。古びた弦が、竹弓のそれとは似ても似つかない、掠れた音で軋む。
なのに。
会に入ったとき、その古びた弦は、確かに冬の匂いをさせた。
流木の節が、近づいてくる。夜明けに残った月のように、白く、大きく。七年間、夢の中でだけ引いていた弓の感触が、指の内側に戻ってくる。もういない人の声が、世界をひとつ跨いで、聞こえる。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
——離れ。
細い狩矢は、私を置いて飛んでいって、十五メートル先の節の中心に立った。
残心。
矢の飛んだ先に心を置いたまま、私は、自分が泣いていることに気づいた。
体が違っても。世界が違っても。名前も、家族も、何もかも違っても。
射は、私を覚えていてくれた。
*
ばしゃん、と背後で水音がした。
振り向くと、川で鍋を洗っていた父さんが、鍋を落として立ち尽くしていた。
「り……」
「り?」
「リノが!! 天才だああああ!!」
うちの娘は世界一だと知ってはいたが今のは何だ弓か弓なのか俺は弓は素人だが今のがとんでもないことだけは分かるぞ誰に見せても自慢になるいや誰にも見せたくない——という号泣混じりの言葉の濁流を、私は半分も聞き取れなかった。父さん、鍋。シチューの鍋が流されてます。
そして、焚き火の向こう。
母さんは、拍手も歓声もしなかった。
ただ、目を細めて、私の手元の古い狩弓を見ていた。それから、静かに聞いた。
「リノ。その型——どこで、覚えたの?」
型。
見られていたのは、的中じゃなかった。足の開き、背中の張り、離れの後の、残心。この人はさっきの一射の、いちばん誤魔化しの利かない場所を見ていた。
「……夢で、見たの」
嘘は言っていない。前世は今や、夢みたいなものだ。
母さんは、しばらく私を見ていた。焚き火が、ぱち、と爆ぜた。
「そう」
それだけだった。それ以上は、何も聞かれなかった。母さんは「お鍋ぇ!?」とようやく気づいた父さんを笑いながら、いつも通りの夜に戻っていった。
——戻って、いったのだけど。
流木から矢を回収して戻る私の頭を、すれ違いざま、母さんの手のひらがひとつ、ぽん、と撫でた。
「いい射だったわよ、リノ」
……射。
今、「射」って言った? この世界の言葉で、弓は「撃つ」ものであって「射る」ものじゃ——いや、聞き間違いかもしれない。そうであってほしい。
母さんの目は、たぶん、誤魔化せていない。
(第二話・了)
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