百射百中、のち即死
私の人生は、だいたい弓で説明がつく。
名字は弓削。ゆげ、と読む。名前は玲乃。物心ついたときには祖父の道場で弓を引いていて、中学で全国を獲り、高校で「百射百中の玲乃」なんて大層な二つ名がつき、そして今日、世界大会で優勝した。
十七年の人生、九割が弓。残りの一割は、部活帰りのコンビニの新作スイーツ。
恋人? いたことない。「弓削さんって、弓と結婚するんでしょ」とはクラスメイト談である。失礼な。否定できないけど。
で、そんな私が今日、何をしたかというと。
優勝した三時間後に、トラックにひかれて死んだ。
……ちょっと自分でも何を言っているかわからないので、順番に話したい。まずは、人生最後の射から。
*
弓を構えると、世界から音が引いていく。
潮が引くように、順番に。観客のざわめき。カメラの音。スコアボードの明滅。「百射百中」という二つ名。日本代表という重さ。最後に、弓削玲乃という名前そのものが、砂に書いた文字みたいに消える。
あとに残るのは、弓と、矢と、二十八メートル先の的だけ。
足踏み。大地を踏み分けて、体の芯を据える。胴造り。背骨にもう一本、見えない矢を立てる。打起し、引分け——弓がぎち、と軋んで、張りつめた弦が冬の匂いをさせる。
会。
満月まで引き絞って、私は待つ。狙わない。狙えば、的は遠ざかる。当てたいと思えば、その「当てたい」のぶんだけ、矢は曲がる。だから欲を、指先からひとつずつ、解いていく。
呼吸が薄くなる。的が、近づいてくる。直径三十六センチの円が、夜明けに残った月みたいに大きく、白く、目の前まで降りてくる。
師範の声がする。もういない人の声は、いつも会の中でだけ聞こえる。
『玲乃。当てようと思うな。当てたいという欲が、矢を曲げる』
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
——離れ。
それは私が放つのではない。満ちた瞬間、矢のほうが私を置いていくのだ。弦音が射場を裂き、一拍遅れて、乾いた的中音が返ってくる。
残心。矢の飛んだ先に、心だけを置いてくる。
そこまでが、一本の射だ。
……と、まあ。
弓のことになると、私の語りは急に文学になる。許してほしい。人生の九割が弓だったのだ。残りの一割はコンビニスイーツなので、そちらの描写に文学は要らない。
ともあれ、世界一になった。津波みたいな歓声の中で私が考えていたことは「お腹すいた」である。人間、案外そんなものだ。
インタビューで「百射百中の秘訣は?」と聞かれたので、「外さないのではなく、外す射をしないんです。当たる条件が揃うまで離さないだけです」と真面目に答えたら、記者全員に禅問答みたいな顔をされた。真面目に答えたのに。
*
事故は、その帰り道だった。
夕暮れの交差点。青信号。ボールを追いかけて車道に飛び出した男の子と、減速しないトラックが、同時に見えた。
——ここだけは、茶化さずに言う。
体は勝手に出ていた。迷いは矢を曲げる。迷いは、足も曲げる。だから迷わなかった。男の子の襟首をつかんで、歩道へ投げて、振り向いたら、もう目の前だった。
怖くはなかった。
音が引いていくのは、射場と同じだったから。クラクションも、誰かの悲鳴も、潮のように遠くなって——最後に残ったのは、たったひとつ。
(あの子、ちゃんと転がれたかな)
矢の飛んだ先に、心を残す。
私の十七年は、最後まで残心だった。
*
「ここは……?」
気づくと、白い空間に立っていた。上下左右、全部白。無印良品の壁紙売り場みたいなところだ。違うか。
『——射手よ』
声がした。壮大なエコーのかかった、男とも女ともつかない声。
『その心を、残したまま逝くのか』
「どちら様ですか」
『名は、そなたの知る言葉にない』
「名乗る気がないだけでは」
『……神、と呼ぶ者が多い』
やっぱり名乗れるんじゃないですか。
神様いわく、私の「最後の一手」——男の子を助けたあれを、たいそう気に入ったらしい。ついては、その心と技がここで消えるのは惜しいので、別の世界でもう一度人生をやらないか、というお誘いだった。
「別の世界って、あの、剣と魔法の?」
『うむ。剣と、魔法の』
「弓は」
『……ある。あるが、その、なんだ。些か不遇な扱いを受けておる』
「引き受けました」
『早いな?!』
だって弓が不遇って聞いたら、放っておけないでしょう。弓を引けるなら、どこだって射場だ。それに向こうの弓が肩身の狭い思いをしているなら、世界一の名にかけて、地位向上に努める義務がある。
『よき返事だ。では、送ろう』
白い世界に光が満ちていく。おお、転生ってこんな感じなのか。思ったよりまぶしい。思ったより、あったかい。
『……ときに、射手よ』
「はい?」
『ひとつ、詫びておく。そなた、静かな射場を好むであろう』
「? まあ、射場は静かなものですけど」
『すまぬ。《《静かな生まれには、ならなんだ》》』
「は? どういう——ちょっと待っ——」
《《待ってくれなかった。》》
*
おぎゃあ。
……おぎゃあ?
私は泣いていた。自分の意思と関係なく、小さい肺が全力で稼働している。
見上げた視界はぼやけていたけれど、分かることはいくつかあった。ここは天井の低い、揺れる、木の箱の中——たぶん幌馬車だ。私を取り上げてくれたらしい恰幅のいいおばさんが、汗だくで笑っている。
「元気な女の子だよ!」
そして、産着ごと私を抱いた黒髪の女の人が——たぶん、母が——荒い息のまま、ふ、と目を細めた。
「あら。いい目をしてるのね、この子」
産まれて三十秒の新生児の目を見て、いい目って何。
と、ツッコミかけたそのとき。
幌の外で、獣の遠吠えが聞こえた。ひとつじゃない。産声が夜に響いて、血の匂いが風に乗ったのだろう。複数の何かが、こっちへ向かって、地鳴りみたいに駆けてくる。
「——旦那ぁ! 来たよ! 群れだ!」
おばさんが叫ぶ。馬車の外から、地響きみたいな男の声が返った。
「うちの娘の産声を聞きつけるたぁ、耳の早い狼どもだなあ!?」
がぎん!! と、鉄と牙のぶつかる音。何かが吹っ飛んでいく音。そしてその男の人は——たぶん、父は——盾を振るいながら、明らかに泣いていた。
「見たか狼ども! 産声が世界一だろうが! うちの娘は産声から世界一なんだよぉ!!」
「旦那、泣きながら戦うのやめな! 前が見えないだろ!」
「見えなくても止められらぁ!!」
嘘でしょ、この人盾で狼を吹き飛ばしてる。というか産声に世界一とかあるの。
呆然としていると、私を抱いていた母が、するりと幌の隙間へ腕を伸ばした。え、待って、あなた産後——何分どころか、何秒の世界では?
横合いから馬車に飛びかかった一匹の鼻先に、寝たまま、片手の、裏拳。
ぎゃん、と短い悲鳴。どさり、と重い音。
「めっ、よ」母は狼に言った。それから私に向き直って、世界一やわらかい声で続けた。「——うるさくしてごめんなさいね、リノ。もう少しだけ、我慢してちょうだい」
リノ。
それが、今度の私の名前らしかった。
外では父が泣きながら狼を吹き飛ばし、産婆のおばさんが「祝い酒はまだかい!」と笑い、母は裏拳の姿勢のまま私に子守唄を歌い始めた。静寂のかけらもない。神様、これが「静かな生まれにはならなんだ」ですか。事前申告の範囲を超えてると思うんですけど。
……でも。
泣きながら振るわれる盾の音も、場違いな子守唄も、遠吠えを上書きしていく笑い声も。
全部が、私を守る音だった。
なんて家に生まれたの、私。
——いや。
《《最高では?》》
(第一話・了)
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです!
毎日二話更新の集中連載!




