渇望の魔(前編)
ロシュの町は、静かすぎた。
封鎖線は町の外周に張られ、白い法衣の回収班が検問を立てている。私たちは夜のうちに、封鎖の薄い北の丘から町へ入った。……不法侵入である。自覚はある。でも、封鎖の中から、夜通し、鐘が鳴り続けているのだ。誰かが、鳴らし続けているのだ。
町の中は、無人——ではなかった。
住人は、いた。家々の中に、身を寄せ合って。窓の隙間からこちらを窺う目は、病人のそれではなかった。あれは、怯えだ。
「病じゃ、ないわね」
「ああ。……鐘の音は、教会からだ」
町の中央、古びた教会堂。その扉の前で、私たちは、先客に会った。
白い法衣の、若い神官だった。回収班の装束。けれど彼は検問にいるべき身で、たった独り、教会堂の扉の前に座り込んで、震えていた。私たちを見て、彼は誰何するでもなく、掠れた声で言った。
「……あなたたちは。『熊と花と矢と光』……記録の。ああ、神様。よりによって、あなたたちが来てしまった」
「あなた、回収班の人でしょ。中で、何が起きてるの」
若い神官——リアムと名乗った——は、しばらく俯いて、それから、意を決したように顔を上げた。
「……規則では、話せません。でも、規則を守った結果が、《《これ》》です。だから、話します」
*
リアムの話は、こうだった。
ロシュのラウル司祭は、四十年この町に仕えた人だった。町は寂れる一方で、教区の予算は削られ、中央への陳情は握り潰され続けた。それでも司祭は独りで施しを続け——三ヶ月前、町の廃墟から「黒い石」を見つけて、中央に届け出た。
「規則通りなら、回収班が行くはずでした。でも……中央は、動かなかった。《《放置されたんです。三ヶ月も》》」
「なんで」
「わかりません。手続きの遅延、と説明されました。でも、あんな遅延、聞いたことがない。まるで——」
まるで、《《わざと熟成させたみたいに》》。
リアムはその言葉を飲み込んだけれど、顔に書いてあった。
石と同じ屋根の下で、三ヶ月。陳情を握り潰され続けた四十年の司祭と、囁く石の、三ヶ月。結果は、聞くまでもなかった。ラウル司祭は変わった。施しは「取り立て」になった。町のための寄進を、家々から「集める」ようになった。町を出ようとする者を、鐘楼に「保護」するようになった。
「回収班が来たのは五日前です。でも、私たちの装備は、石を運ぶためのもので……《《人に宿ったあれ》》と戦う訓練なんて、受けていない。班長は封鎖線を張って、中央の指示を待つと言いました。指示はまだ来ません。その間も、毎晩、あの鐘が」
「住人を、集める鐘か」
「はい。……もう、二十人以上が、教会堂の中に」
父さんが、盾を降ろした。母さんが、指の骨を鳴らした。私は矢筒の中身を数えた。二十本。ノエルは、リアムの前に膝をついて、まっすぐ聞いた。
「リアムさん。ひとつだけ。——《《あれ》》の、本当の名前を知ってますか」
リアムの顔が、こわばった。
「……それを知る資格は、私の位階には」
「資格の話はしてません。《《知ってるか》》を聞いてます」
土壇場のノエルは、一歩も引かない。若い神官は、長い沈黙のあと、震える声で、その名を口にした。
「————《《ヴァニタス》》」
夜風が、止まった気がした。
「渇望の魔、ヴァニタス。聖典から削られた、七英雄の伝承の……齧った端しか、私は知りません。でも、禁書庫の写本に、一行だけ、読んでしまった一節があります」
リアムは、目を閉じて、諳んじた。
「『それは砕かれて、なお死なず。人の窓より入り込む。——《《窓とは、願いである》》』」
(第二十九話・了)
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