海はしょっぱい
旅程を早めた旅は、思いのほか、悪くなかった。
南へ、南へ。教会の網の目が薄い海沿いの街道を選んで、私たちは進んだ。指名依頼は途絶えたけれど、魔物はどこにでもいるし、灰熊亭の評判は書類より足が速い。野営を張れば人が寄り、人が寄れば仕事の話が来る。父さんの言った通りだった。うちは、どこでだって開店できる。
そして、旅程を早めたおかげで——
「〜〜〜〜っ、リノさん!! 見えました!! あれ、あれ!!」
丘を越えた先に、青が広がった。
空より濃くて、平らで、どこまでも続く青。ノエルは荷物を放り出して丘を駆け下り、砂に足を取られて転び、転んだまま起き上がりもせずに、笑った。
「海だーーー!!」
見たいものリスト、一番目。達成である。
ノエルは裸足で波打ち際に立ち、寄せた波に「ひゃっ」と飛び上がり、恐る恐る指先で海水をすくって、舐めた。
「…………しょっぱい!! 本当にしょっぱいです!! リノさん、本当でした!!」
「でしょ」
「べたべたも本当ですか!?」
「乾くと分かるよ」
「〜〜っ、確かめます!!」
夕方まで、私たちは海で遊んだ。父さんは浜で貝を焼き、母さんは岩場で大きな蟹を素手で獲り(蟹に勝つ拳聖)、ノエルは膝まで濡れて、髪の白い矢羽根に潮風を絡ませて、ずっと、ずっと笑っていた。
日が落ちる頃、砂浜に並んで座って、ノエルは祈祷書のリストに線を引いた。
——海。《《しょっぱかった。べたべたも本当だった。》》
「一つ目、です」
「うん」
「あのね、リノさん。私、今日みたいな日のことを、ずっと『いつか』って呼んでたんです。いつか海を見る。いつか自由になる。……『いつか』って、遠くにあるものだと思ってました」
ノエルは、線を引いたばかりのリストを、大事そうに撫でた。
「でも違いました。『いつか』は、隣に誰がいるかで、『今日』になるんですね」
……この子は、たまに、直球で心臓を撃ってくる。昔からだ。
「……そうだね」
私はそれだけ言って、夕陽の海を見た。顔は見られたくなかった。耳は、たぶん、もう手遅れだった。
*
現実が追いついてきたのは、三日後の港町だった。
ギルドの支部に入った途端、空気が変だと分かった。職員たちが小声で話し、掲示板の前に人だかりができている。貼り出されていたのは、討伐依頼——ではなく、《《立入禁止令》》だった。
「内陸のロシュの町、まるごと封鎖ですって」と、受付の職員が教えてくれた。「教会の指示でね。『流行り病』だそうよ」
「流行り病、ねえ」と母さん。
「……変なのよ。医療班じゃなくて、《《回収班》》が向かったって話なの。鉛の箱を積んだ、あの馬車が」
家族の目が、合った。
流行り病に、鉛の箱はいらない。
「ロシュの町って、何があるの?」
「古い教会と、司祭様がひとり。ラウル司祭っていって……ここ数年、寂れる一方の町を、独りで支えてた人よ。施しも、看取りも、ぜんぶ独りで。《《いい司祭様》》って評判だった」
いい親分。いい騎士。いい司祭。
——三度目の「いい人」だった。
「行くぞ」
父さんの決断は、早かった。
「教会の封鎖線の中だぞ? 依頼もない。報酬もない。……それでも行くのか、って顔をしてるな、職員さん」
父さんは、大盾を担ぎ直した。
「うちはあの石に、二度会ってる。三度目のあれが町を食ってるなら——放っておくと、寝覚めが悪いんでな」
(第二十八話・了)
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