微笑む枢機卿(後編)
その夜、宿にニナさんが来た。
「サンクトにいるって聞いたから。……はい、これ、頼まれてた昇級の書類。ついでに、忠告をひとつ」
ニナさんは書類を渡すと、声を落とした。
「あんたたち、今日、《《枢機卿オズウェル》》に会ったでしょ。祭りで話しかけられたって、もう支部で噂になってる。——何があったか、正確に聞かせて。一言一句よ」
私たちは、祭りでのやり取りを、言葉のひとつまで思い出して話した。聞き終えたニナさんは、長い息を吐いた。
「知ってるんですか、あの人のこと」
「ギルド職員やってて、知らない方がもぐりよ」
ニナさんの語るオズウェル像は、こうだった。
孤児院の出身。身寄りなく教会に拾われ、下働きから五十年かけて枢機卿まで上り詰めた、立志伝中の人物。清貧で知られ、私財は全額孤児院に寄進。政敵にすら人格を疑う者はなく、庶民からの人望は歴代枢機卿でも随一。「聖人になるなら生きているうちに」と言われる男。
「……完璧すぎない?」
「そうね。完璧すぎるの」
ニナさんは、指で机を、とん、と叩いた。
「一つだけ、妙な話があるわ。ノエルちゃん、あなたの『囲い込み』の件——あの書類仕事、発端は地方の司教たちだったけど、《《最終承認の署名は、ぜんぶオズウェル猊下なのよ》》」
「え……」
「『聖女の再来を保護せよ』。署名、オズウェル。『捜索の手配を全支部へ』。署名、オズウェル。今日、あなたに『教会のやり方は性急に過ぎました』って言った、あの口でね」
宿の部屋が、静かになった。
「善人が、善意で、籠を作ることはあるわ。でもね……自分で籠を作って、自分で『籠はよくない』と言う人は、《《別のもの》》よ。気をつけなさい」
*
ニナさんが帰ったあと、家族会議になった。
「率直に聞くわ。リノ、あなた、あの老人をどう見たの」
母さんが、まっすぐ私に聞いた。父さんもノエルも、私を見た。……見られている理由は、分かっていた。うちで一番、目がいいのは私だ。的を見る目も、的じゃないものを見る目も。
「……綺麗な的、ってあるでしょ。塗り直したばかりで、真円で、狙ってくださいって顔をしてる的。あの人、あれに似てた。完璧すぎて、逆に、裏の板が見えない」
「ふうん」
「それと。最後、ノエルの手を取ったとき——」
思い出す。あの一瞬の、声の乾き。
「——《《ガロと、同じ目をした》》。一瞬だけ。飢えてる目。何かが、足りてない目」
ノエルが、自分の手を、もう片方の手で包んだ。
「で、でも、あの、猊下は……石の声とか、私、あの人からは何も」
「聞こえなかった?」
「はい。何も。……ただの、あったかい手でした」
「なら、まだ、なのかもね」と、母さんが言った。「あるいは、私たちの考えすぎ。……どちらでもいいわ。やることは変わらない」
母さんは、指を三本立てた。
「一、サンクトからは明日発つ。二、教会絡みの依頼はしばらく受けない。三、——《《ノエルは、絶対に一人にしない》》」
「はい」
「は、はい!」
会議が終わって、寝支度をしながら、ノエルがぽつりと言った。
「……変な感じ、です。今日のあの方、本当に、いい人にしか見えなかった。孤児院の視察に来てた頃も、私たちにお菓子をくれて、名前をぜんぶ覚えてて。……いい人、なんです。私の知る限り、ずっと」
「うん」
「なのに、リノさんが『ガロと同じ目』って言ったとき——私、否定できませんでした。どうしてでしょう」
私は、少し考えて、答えた。
「……ガロも、いい人だったからじゃない? 手下に飯を食わせたかっただけの、いい親分だった。オルドさんも、村を守りたかっただけの、いい騎士だった」
「————」
「母さんが言ってた。あの石は、優しい人の、いちばん綺麗な願いを狙うって。……だったら」
大陸でいちばん「いい人」と呼ばれる老人の中に、五十年ぶんの、いちばん綺麗な願いが積もっていたとしたら。
それは、どれほど上等な的に見えるだろう。——あの石から。
窓の外、サンクトの大聖堂の尖塔が、月を背に黒く立っていた。
(第二十五話・了)
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