微笑む枢機卿(前編)
巡礼都市サンクトは、大陸で二番目に大きな教会都市だった。
本当なら、寄る予定のない街だった。教会のお膝元に、出奔シスターを連れて入る理由はない。けれど、その週のサンクトは「慈善大祭」——年に一度、教会が貧者に施しを開き、各地の治療師が集って無償の診療を行う祭りの最中で、そして私たちは、祭りに物資を運ぶ隊商の護衛依頼を受けてしまっていた。
「……大丈夫です。もう、法の上では自由の身ですから」
ノエルはそう言って笑ったけれど、街門をくぐるとき、白い髪飾りの下の横顔は、少しだけ硬かった。
祭りそのものは、綺麗だった。
広場に張られた白い天幕。並ぶ人々。パンと薬湯の湯気。子供たちの歌う聖歌。……教会という組織の、いちばん良い顔が、そこにあった。ノエルの足が、診療の天幕の前で、自然と止まった。
「手が、足りてませんね」
「……手伝いたい?」
「〜〜っ、で、でも」
「行っておいで。何かあったら、矢の風切りを鳴らすから」
ノエルは飛び込んでいった。腕まくりをして、あっという間に天幕の中心になった。詠唱なしの高位治癒に、周りの治療師たちがざわめく。列が、彼女の前にだけ、みるみる伸びていく。
——目立ちすぎだ、と気づいたときには、遅かった。
*
「これはこれは。見事な御手並みですなあ」
その老人は、拍手をしながら、人垣の向こうから現れた。
質素な、それでいて仕立てのいい聖職者の服。柔和な皺。杖をつき、腰は低く、笑顔は穏やか。周りの神官たちが、さっと道を開けて頭を垂れる——その動きで、老人がただの司祭ではないと分かった。
「ああ、どうかそのまま、お続けなされ。邪魔をしに来たのではありませぬ。わたくしはただ、良い治し手を見ると、嬉しゅうてなあ」
老人は、目を細めてノエルを見た。
「……おお。おお、あなたは」
ノエルの手が、止まった。
「ノエル。ノエルではありませぬか。大きゅうなられた……! いやはや、覚えておいでではないでしょうなあ。あなたが孤児院におられた頃、二度ほど、視察で伺ったことがあるのです」
「あ……えっと……」
「オズウェルと申します。しがない、祈りの年寄りですよ」
背後の神官が、掠れた声で補足した。——《《枢機卿猊下》》であらせられます、と。
枢機卿。教会にその位を持つ者は、大陸に七人しかいない。そのうちの一人が、供回りも最小限に、慈善祭の人混みを、杖をついて歩いている。
「猊下、あの、私は——」
「ああ、よいのです。よいのです」
オズウェルは、手を振って、ノエルの言葉を柔らかく遮った。
「あなたの『件』は、存じております。……正直に申せば、教会のやり方は、性急に過ぎました。囲い込むばかりが保護ではない。鳥を愛でるに、籠から始める者の、なんと多いことか」
老人は、天幕の患者たちを見渡した。
「けれど、ほれ、ご覧なされ。あなたの光は、外の風の中で、こんなにも多くの人を救うておられる。……これでよかったのかもしれませぬなあ」
正しい言葉だった。私たちがずっと教会に言いたかったことを、教会のいちばん偉い人が、先回りして言った。
だから、余計に。
私は、この老人から、目が離せなかった。
「もし、困りごとがあれば、いつでも訪ねてこられよ。教会は、あなたの敵ではない。……ああ、それと」
オズウェルは、去り際、ノエルの手を、両手でそっと包んだ。祝福の仕草。祭りの間、彼が何百人にもしていた、ありふれた仕草。
「良い光じゃ。……《《実に、良い光じゃ》》」
その声が。
一瞬だけ、乾いた気がした。祭りの喧騒の中で、私だけが聞き間違えたのかもしれない、ほんの一瞬。飢えた者が、他人の皿を見る時の——あの、粘り。
老人は杖をついて、人混みに消えた。ノエルは自分の手を見下ろして、少し首を傾げて、それから診療に戻った。
私は、消えた背中の方角を、しばらく見ていた。
弓を構えたわけでもないのに、指先が、勝手に弦の位置を探していた。
(第二十四話・了)
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