あなたが誰でも
オルドの一件のあと、母さんは「寄り道をするわ」と言った。
行き先は、タエの湯。二度目の湯治だった。誰も反対しなかった。ああいう依頼のあとの家族に何が要るか、母さんはいつも、誰より早く知っている。
その夜。ノエルと父さんが先に休んで、湯上がりの縁側には、私と母さんだけが残った。
母さんは、タエばあの持ってきたヤマトの酒を、小さな杯で飲んでいた。月が、山の端にあった。
「リノ。——弓聖の話、してあげましょうか」
「……弓聖?」
「ヤマトの、いちばん古い弓の一派の話。私も、祖母から聞いただけだけど」
母さんの声は、いつもよりゆっくりだった。
「ヤマトの弓はね、戦のための術じゃないの。《《行》》なのよ。心を磨くための、道。的に中てることよりも、正しく引くことを尊ぶ。正しく引けたなら、矢は勝手に中たるものだから——って」
心臓が、静かに、冷たくなっていった。
それは。それは、まるで。
「一派の教えに、こういうのがあるそうよ。『的を望むな。望みは矢を曲げる』…………あら。どうしたの、リノ。そんな顔して」
どんな顔をしていたのか、自分では分からなかった。ただ、気づいたら、口が動いていた。
「母さん。……あのね」
言うつもりは、なかった。十六年間、一度も言うつもりはなかった。でも、この夜の縁側は、月と、湯けむりと、母さんの声でできていて——嘘のつけない場所だった。
「私、夢を見るの。……ずっと、小さい頃から。《《別の世界で、弓を引いてる夢》》」
母さんは、杯を置いた。何も言わずに、続きを待った。
「夢の中の私は、別の名前で、別の家にいて。板張りの道場があって、先生がいて。今の母さんの話と、そっくり同じことを教わってる。『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』って。……十七年ぶん。夢にしては、長すぎる夢を、ぜんぶ覚えてる」
半分だけの、告白だった。死んだことも、トラックも、神様も、言えなかった。でも、これだけでも、十分に狂った話だ。分かってる。七歳の川辺で「夢で見たの」と言ったときから、ずっと、この人には嘘をつき続けてきた——
「リノ」
母さんの手が、伸びてきて。
私の頭を、ぽん、とひとつ、撫でた。七歳のときと、同じ手だった。
「言いにくいことを、よく言ったわね」
「……怖く、ないの? 自分の娘が、こんな」
「あら。何を今さら」
母さんは、ふ、と笑った。
「産まれて三十秒で狼の群れに動じない子でしょう、あなた。七歳で、誰にも習わない型で射た子でしょう。母親を十六年やってて、気づかないとでも思った?」
「〜〜〜っ」
「泣かないの。……いえ、泣きなさい。今夜は月がいいから」
私は、泣いた。声を殺して、でも止められずに、縁側で泣いた。母さんは何も聞かなかった。夢の中身も、別の名前も、先生のことも、何ひとつ。ただ、背中を、ゆっくり、ゆっくり、撫でてくれた。
「いいこと、リノ。一度しか言わないから、よく聞きなさい」
月を見たまま、母さんは言った。
「あなたの中に、何がいても。あなたが、どこから来ていても。あなたの夢が、夢じゃなくても。——《《あなたが誰であっても、あなたは私の娘よ》》」
「…………うん」
「はい、この話はおしまい。……ああ、それとね」
母さんは、空になった杯に、酒を注ぎ足した。
「王都の、ヤマトの弓。あれね、弓聖の流れを汲む職人の、最後の一張りなの。銘は《《梓》》。——あなたが引くところを、いつか見たいものね」
「……大きくなってから、なんでしょ?」
「ふふ。もう、だいぶ大きくなったじゃない」
月が、山の端を離れて、高く昇っていった。
この夜のことを、私は生涯、忘れないと思う。忘れないまま——この夜の続きを、あんな形で迎えることになるとも、知らずに。
(第二十二話・了)
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