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心の垢は湯で流す

湯治場「タエの湯」は、北の山あいに、白い湯けむりを上げていた。


出迎えてくれたのは、腰の曲がった小さなおばあちゃんだった。母さんの顔を見るなり、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして笑う。


「おやまあ、カグラちゃんかい」


「タエばあ、ご無沙汰。——娘たちを連れてきたわ」


タエばあは、ヤマトからこの大陸に渡ってきた湯守だという。つまりこの宿は、母さんの故郷の流儀で建てられた、この辺りで唯一の「ヤマト式」の湯治場なのだった。石造りじゃない、木の香りのする建物。廊下の床は、素足に気持ちいいつるつるの板張り。


「ゆ、床が、あったかい……!? リノさん、床があったかいです!!」


「お湯を床下に通してるんですって」


「なんて叡智……!」


ノエルは廊下の時点で感動していた。先が思いやられる、と思った。


思った通りだった。


*


女湯の戸を開けた瞬間、ノエルは湯けむりの向こうの岩風呂を見て、完全に固まった。


「これ……ぜんぶ、お湯ですか」


「ぜんぶお湯よ」と母さん。


「何人ぶんですか」


「何人でも」


「〜〜〜っ、すごい!! すごいすごい!! 教会のお風呂、たらい一杯だったんですよ!? 年長さんから順番に使うんですよ!?」


浴場の使い方をタエばあ直伝で教わって(かけ湯、体を洗ってから、タオルは湯に入れない)、ノエルはおっかなびっくり、肩まで湯に沈んだ。


「…………ふ、ふわぁぁぁ……」


出てきた声が、溶けていた。翡翠色の目が、とろんと細くなる。


「なんですかこれ……お湯が、体を、抱っこしてます……」


「表現力が独特」


しばらくは、平和だった。ノエルは湯の中をちゃぷちゃぷ移動しては「こっちは熱いです!」「ここ、下から湧いてます!」と報告し、私は岩にもたれて、久しぶりに骨まで温まっていた。ガロの一件からずっと、体のどこかが強張っていた。湯は、そういう場所から順番に、ほぐしてくれる。


——で、平和が終わったのは、母さんの一言だった。


「リノ。ノエルの背中、流してあげなさい」


「……はい?」


「ヤマトではね、世話になった人と湯に入ったら、背中を流すのが礼儀なの。《《家訓よ》》」


「その家訓、初めて聞くんだけど」


「あら、そう?」


「今作ったでしょ」


「さあ。——ほら、ノエル。座って座って」


「は、はいっ!?」


抗議は却下され、湯桶と椅子が用意され、私は気づけば、ノエルの背中の前に膝をついていた。


細い背中だった。杖を振るには細すぎて、でも、あの日ゴブリンの前に立ち塞がった背中だった。石鹸を泡立てて、そっと擦る。ノエルの肩が、びくっと跳ねた。


「〜〜っ、く、くすぐったいです」


「我慢して。家訓だから」


「家訓、さっき生まれたばかりですよね!?」


擦りながら、気づいてしまった。この子、首の後ろまで真っ赤だ。湯のせいか、それ以外のせいか。……考えるのをやめた。考えると、こっちの手が止まる。


「はい、交代」と母さん。


「えっ」


「礼儀は、往復よ」


かくして今度は、私が湯椅子に座らされた。背中に、遠慮がちな手が触れる。小さな手のひらが、肩甲骨のあたりで、ふと止まった。


「……リノさんの背中、弓の形をしてます」


「弓の形?」


「引く方の肩が、ちょっとだけ厚くて。背骨の横に、まっすぐな筋が通ってて。……なんだか」


湯けむりの向こうで、小さな声がした。


「やっぱり、《《綺麗》》です」


——四年前、市場の夕陽の中で言われた言葉と、同じだった。


湯のせいにできる顔で、よかったと思う。たぶん今、私の顔は、ノエルの首の後ろと同じ色をしている。


「……のぼせそうだから、上がる」


「あっ、私もです!」


「あらあら」と、湯の中から母さんの声だけが追いかけてきた。「《《若いわね》》」


*


ちなみにその頃、男湯では。


「…………広いな」


父さんが、巨体を持て余して、独りで湯に浮いていたらしい。壁の向こうから聞こえてくる娘たちの笑い声(主にノエルの「すごいすごい!」)に耳を澄ませて、


「……いい湯だなあ……」


と呟いて、静かに泣いていたことを、あとでタエばあが教えてくれた。家族が笑っている音で泣ける男、それがうちの父である。


*


湯上がりの縁側で、私たちは冷えた果実水を飲んだ。


タエばあが持ってきてくれた櫛で、私はノエルの髪を乾かした。亜麻色の髪は、湯上がりだと蜂蜜色になる。ノエルは私の黒髪を乾かしながら、「ヤマトの髪みたいで羨ましいです」と言った。母さんが遠くでにやにやしていたが、今日はもう、気にしないことにした。湯上がりの人間は無敵なのだ。


夜。露天の岩の上から、山の星空が見えた。


「リノさん。あの、リストに……足していいですか」


「なにを?」


「《《温泉》》。……見たいものリストなのに、入っちゃいましたけど。もう一回来たいものリスト、でもあるので」


「いいんじゃない。リストの管理者はノエルだし」


ノエルは祈祷書を出して、余白に小さく書き込んだ。それから、少しだけ声の温度を落として、続けた。


「……あのね、リノさん。私、今回の依頼で、初めて知りました。治せない傷が、あるんだって。注いでも注いでも、届かない穴があるんだって」


ガロの、空っぽの胸。


「私の光は、万能じゃ、ないんだなって」


「……そうだね。万能じゃなかった」


慰めの嘘は、言わないことにした。この子には、顔に出るから、どうせバレる。


「でも、ノエルの光は、あの黒い石を黙らせた。父さんと母さんが二十年かけて『関わるな』としか学べなかったものを、君は一撃で黙らせたんだよ。……あれが何だったのか、まだ誰にも分からないけど。私は、ちょっと心強かった」


「……心強い、ですか」


「うん。それに」


私は星空を見上げたまま、言った。


「治せない穴があるって知ってる治し手の方が、私は信用できる」


隣で、小さく洟をすする音がして、それから「……はい」と返事があった。湯上がりの夜気の中で、ノエルの両手が、胸の前で祈りの形に組まれているのが、目の端に見えた。今夜のは、たぶん、報告だ。


*


翌朝、宿を発つ前に、母さんが私たちに小さな革袋を放って寄越した。振ると、ちゃりん、と音がした。


「麓の街で、市が立つ日よ。——二人で行ってらっしゃい」


「え、母さんたちは?」


「私たちはタエばあと積もる話。夕方までに戻ればいいわ」


ノエルと顔を見合わせる。二人で、市。二人で。


「……あの、これって」


「あら、何かしら?」


母さんは、それはそれは、いい笑顔だった。


(第十八話・了)

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